1. 病理解剖の目的
2. 病理解剖の前に
3. 病理解剖の実際
4. 病理解剖診断総論
   

医学は人間を病気から開放するためにある。それは願いであり、
期待である。実際にはそれはなかなかむずかしい。それが困難であるとしたら、せめて医療における誤診や誤療や過失はできるだけ少なくしなければならない。そのためには失敗例や誤診を白日のもとにさらし、それがおこった条件を広く検討し、対応を重ねなければならない。産業の世界では安全性についてそうした態勢がとられており、大学の工学部には安全工学などというセクションが設けられて資料の収集、解析が行われている。

中川米造  『医学の不確実性』

 病理解剖の手引き

 T.病理解剖の目的

 病理解剖は、不幸にして亡くなられた患者さんの病気と死因を明らかにするために行われる。病理解剖で全ての病気や死因を究明できるとは限らないが、患者さんとご遺族のご厚意に報いる事と医療の進歩のために最善をつくしてこの仕事に取り組まなければならない。
 病理解剖数が減少傾向にあることは事実である。社会や医療の変化とともに病理解剖の意義やその中身が少しずつ変化することは自然の流れであろう。しかし、医療の進歩が終わる日まで病理解剖の基本的な目的がなくなることはないであろう。

 U.病理解剖の前に

 解剖は亡くなられた患者さんとご遺族のご厚意の上に行われるものである。解剖の開始から終了までご遺体は丁重に取り扱わなければならない。解剖の開始と終了時に感謝を込めて一礼するすることが解剖する者と臨床医にとって欠かせないことである。
 病理医は、開始の前にご遺族の承諾書を確認し、解剖の具体的な目的を臨床医に問わなければならない。そして、臨床医は、できる限り詳細に疾患や臨床経過に関する情報と、死因に対する臨床の考えを報告する義務がある。これらは解剖を円滑に進めるために大切な事柄である。解剖の目的や臨床の内容を十分理解しないで病理解剖を開始してはならない。

「自分のみた患者は必ずあとで解剖するんですからね。いい勉強になりますよ。何しろ臨床診断と解剖の結果があまりちがうと園長のきげんが悪いんですね。医局にはいりたての者はびくびくものです。だからここでは臨床の腕は非常にあがりますね」二人とも結核が死因で、結核性の変化が著明なために、らいのそれはまったく覆われてしまった観がある。一人には全肺に粟粒様の結節があり、他は結核性腹膜炎に典型的なものであった。一人の子宮にはこぶし大の筋腫、もう一人のには小さなポリープ三個が見出された。

神谷美恵子  『人間をみつめて』

 V.病理解剖の実際

・皮膚を切開し、内臓が十分観察できるようにする。通常行う切開法は、胸部から下腹部までの正中切開である。必要な場合を除き、頚部に切開を加えないことが望ましい。脳や脊髄を観察する必要がある場合は、解剖の前にご遺族の承諾を受けなければならない。
 内臓は、まず表面を肉眼的に観察し周辺臓器との関係を確認した後、これを取りだし割面を観察する。必要に応じて肉眼写真を撮影する。そして、速やかに臓器を固定液に移す。固定後の肉眼観察や顕微鏡標本切り出しに支障が起こらないように、臓器は形を崩さないで固定する。

・解剖用紙に、臓器の主要な変化と重量を記入する個所があるので、各々を漏れなく記載するよう担当医に依頼する。そして、全体の肉眼所見を総合して、剖検時(肉眼)診断をおこなう。明確な変化であれば直ちに診断を下してよいが、肉眼診断が最終診断とならないことも多い。従って、必ず顕微鏡標本を作製し、変化を確認した後に、最終診断をつけなければならない。診断のため、時には細菌培養、血液採取、組織凍結、電顕標本作製などが必要となる。
 以上のことは臨床医の合意と協力の上に行うべきである。なお、解剖には感染の危険があるので、細心の注意を払うことを常に心掛けるべきである。

・ご遺体は、できる限り清潔にし切開を細かく縫合する。そして、一礼を行った後お見送りする。なお、病理解剖された臓器は一定期間保存されなければならない。当院での保存期間は最終診断を行い、診断書がご遺族に届けられるまでとしている。保存された臓器や作成した標本はいつでもご遺族に請求の権利がある。


 W.病理解剖診断総論

・1)全ての臓器を肉眼的に観察し、2)必要な部位を標本作製し、3)顕微鏡的検討を行い、4)他の検査や臨床情報も総合し、5)最終的な剖検診断をつけることが、基本の手順である。
 剖検では、対象となる疾患や病態が無数にあるので、的確な診断に至るのが難しいと思われるかもしれない。さらに、病理解剖は肉眼と組織の形態診断を主な手法とするために、病気の機能的な側面を見落としてしまう危険性がある。また、疾患の病態は治療や経過によって複雑に変化するが、病理解剖はその死亡時断面のみしか捉えられない可能性がある。
 このような困難を克服するために、生前の疾患や病態の情報は不可欠で、これを踏まえなければ診断の正しい方向を見失うことになる。故に、これらを十分理解したうえで解剖にあたることと臨床と密にコミュニケーションをとることが重要である。

・臨床診断が的確になされ、病態がよく把握されている場合、解剖の方向はほぼ決定されると言ってよい。肉眼的な病変が特徴的で代表的な疾患(胃癌、大腸癌、肝硬変など)であれば、外科病理的な所見の確認で足りることもある。
 しかし、病気の治療と経過を十分に確認しながら解剖を進めていくことは重要である。病態や経過が通常と異なる場合、それに対応する変化を見出すようにしなければならない。基礎疾患以外の重要な副所見を逃さないことも大切である。

・臨床診断が確定されていないか、病態が十分把握されていない場合、臨床情報から疑われる疾患を想定して全身を詳しく観察するようにする。
 疾患の確定に必要と思われる方法、例えば、心筋炎が疑われる時は、血清採取や組織の凍結、電顕標本作製などを、立会いの人に協力してもらいながら行わなければならない。原発性肺高血圧症などが疑われる時は、光顕標本で確定診断が出来るので、肺を最も良好な状態に固定するよう心掛ける。
 疾患に伴う副所見、例えば、心筋炎ならば心嚢水、タンポナーデ、急性肺水腫など、肺高血圧症ならば肺梗塞や右心不全等の有無を調べる。これらは疾患の診断や死因とも関連するので重要である。

・臨床診断が困難で、死因の推定もつかない症例の解剖が行われることもある。急性経過の症例が多いが、このような時は何らかの事件や、毒物との関連がないかをまず問うことである。警察への届け出や毒物検出の必要性を確かめる。結膜の溢血点や外傷、唾液や胃液の臭いを確かめ、血清の保存も忘れないようにする。
 稀な疾患も想定して、主要臓器以外にも注意を払い、少しでも変化のある臓器は十分に検討することが望まれる。組織は凍結や電顕標本も準備するようにする。たとえ稀な病気であっても、十分な標本の観察や検討がなされるなら、疾患の方向性は導くことが出来る。

・感染症は、病理解剖で遭遇することの多い疾患である。気管支肺炎は、老人や子供に多く、死因となる頻度の高い疾患である。急性肺炎や術後肺炎が、見逃されて死因となることもある。細菌性心内膜炎は、稀であるが、弁膜不全、敗血症や脳出血などの重篤疾患を惹き起こす。重症の偽膜性腸炎、腎膿瘍、後腹膜膿瘍は、臨床的診断がついていないこともある。糖尿病や抗がん剤・ステロイド治療は、多臓器に多種感染症を合併することはよく知られている。
・原因菌は培養し確認することが重要である。組織の観察で注意することは、血管や気道および粘膜表面などの細菌集塊を起炎菌と即断してはならないことである。数時間後の解剖であれば、このような部位に死後雑菌が繁殖することは十分に想定できる。

・腫瘍性疾患も病理解剖では多い。この場合の目的の一つが原発巣の決定である。原発巣が非常に小さく、転移巣が大きい場合がある。治療が強力に行われれば原発巣が消失し、転移巣のみが残ることもある。原発や転移巣の肉眼と組織像の対比や、転移の様式などを総合して判断しなければならない。
 治療後長時間が経過した場合は、腫瘍が再発か新たに発生したかが問題となる。以前の腫瘍と組織像が異なっていれば大きな問題は生じないが、組織像が類似ならば非常に困難な問題が生ずることがある。腫瘍の広がり、治療効果、腫瘍に伴う二次的な変化などを検討することも重要である。

・多発外傷(99-38)、熱傷、急性膵炎、ショック、敗血症などは連鎖的に多数の臓器の機能不全を伴うことが多い。このような病態は多臓器不全(multiple organ failure;MOF)と呼ばれるが、病理解剖で遭遇することの多い病態である。原疾患や冒される臓器によって詳細は異なるが、多臓器不全であるために臨床的に重篤な症状が共通して見られる。
 これらの中で感染症のみならず全身に炎症反応が及んでいる状態を、全身性炎症反応症候群(systemic inflammatory response syndrome;SIRS)として臨床的に扱うようになっている。診断基準は非常に簡便で、体温、脈拍、呼吸数、白血球数の4項目の2つ以上を満たせばよい。臨床現場ではこのような取り扱いも必要であろうが、病理解剖では全身臓器を時間をかけて観察できるので、MOFやSIRSにしても各臓器の変化を具体的に検討、記載しなければならない。

・稀な先天奇形、未熟児疾患、神経疾患などは特殊な知識を要求されることがある。この場合は、専門医に依頼することも時に必要である。

・死因は、病気の診断とともに解剖の目的として重要である。明らかな死因となる器質的病変(心筋梗塞、出血巣、感染巣、血栓症、窒息等)があればよいが、死因が機能的な病態のみのこともある。この場合は心不全、呼吸不全などとしか呼ぶことができない。
 しかし、このような時でも死因に付随する臓器の変化、例えば心肥大、冠状動脈硬化、急性肺うっ血、無気肺、胸水などが見られることが多い。これら機能的死因と関連があるような変化をもらさずに記載することが大切である。電解質異常、酸・塩基平衡、血糖値、 ホルモン異常等も死因を考える上で重要となる。

Inside, he found Dr. Malovar bent over his beloved microscope.
The elderly man looked like Einstein with gray hair and a full mustache.
He also had kyphotic posture as if his body had been specifically
designed to bend over and peer into a microscope. Of his five senses, only his hearing had deteriorated over the years. The professor greeted Jack cursorily while hungrily eyeing the slide in his hand. He loved people to bring him problematic cases, a fact that Jack had taken advantage of on many occasions.

Robin Cook 『Chromosome 6』