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細胞診断の手引き
T.はじめに
細胞診は比較的容易に行える検査であり、適切な採取の手順をふみ、経験のある診断者による診断がなされるならば価値の高い検査である。米国などではこの検査に高い需要があり、これに従事する医療者の数も多い。一方、日本ではこの検査を安価な検査の一つまたは診断の補助検査くらいにしか考えない傾向もある。しかし、他のいろいろな検査の結果に拘わらず、この検査で陽性、クラスXと診断されれば確実に悪性腫瘍が存在するのである。もちろん全ての検査にはその適用範囲と限界(後述)はあるが、これらを良く理解した上で用いるならばこの検査の有効性はさらに高まるはずであり、もっと普及して良い検査と思われる。
この検査は大半の過程が人の手を経てなされることを銘記する必要がある。まず、採取が適切になされなければ、細胞量が不足であったり、出血が強い等の理由で観察に適さない標本が出来ることになる。次に、採取後の検体の処理・固定が正しい手順で行われなければ、せっかく採取された検体が判定に適さない標本となる。さらに、この検査は自動化が進んでいないので、人が全ての標本を観察し判定しなければならない。そして、日常的に多数の検体を扱っており細胞診指導医が常勤する施設とそうでない施設とでは診断の内容や精度に差が出ることは否めない。
これらの条件が満たされたとしても、細胞診断は形態診断であり人が行うものであるから、主観的判断や誤りの危険性が伴うことは十分留意しなければならない。細胞診断と外科病理診断との一致率は80%前後が妥当なところと思われる。外科病理診断が常に細胞診断に勝るとは言い切れないが、いずれの診断においても誤診は許されない。このためにはどう対処するのが良いか。最も重要なことは必要かつ十分な悪性の条件が満たされる時のみ悪性と診断をすることである。例えば、悪性としてまず確実な細胞が認められたとしても、細胞量が少ない、出血や壊死が多い、細胞変性が強い時などは悪性の診断を下すべきではない。報告書には診断の具体的な根拠や診断できない理由を簡潔に記載することが大切である。そして、年齢や症状、臨床診断、採取部位の記載がない検体はあえて受付けないことが必要である。このような姿勢を徹底させ、臨床に理解してもらうことが大切である。
U.細胞診の基本−悪性細胞の見方
a.−進行癌は長い時間を経て出現し、性質の違う細胞で構成される−
細胞診に入る前に簡単に腫瘍の発生論をおさらいしよう。我々の身体はほぼ60兆の細胞によって構成される。これらの細胞が集団を形成し特殊な機能を担う器官や組織ができる。神経や心筋組織は例外として、この細胞集団では日常的に細胞の誕生と死が繰り返されている。新たな細胞の誕生は細胞分裂によるが、一生の間に約1兆の1万倍の細胞分裂が起こると言われている。この細胞分裂で細胞の設計図であるDNAが複製される。複製の精度は非常に正確であるが、1回の正常細胞分裂で1個の遺伝子あたり百万分の1の確率で複製の誤りが起こる。発癌物質への暴露は遺伝子の突然変異を誘発し、DNA修復蛋白の異常やある種のウィルス感染は突然変異の確率を高める。
癌は、癌遺伝子や癌抑制遺伝子に複数の異常が重なって起こる。癌は1個の細胞から発生するが(monoclonality:モノクロナリティー)、1gの腫瘍は1億個の細胞からなり1kgの腫瘍は1兆個の細胞からなると計算される。浸潤や転移を起こす腫瘍には10個以上の突然変異が存在するとも言われている。進行癌は長い時間がすでに経過したものと考えられるが、この間に転移を起しやすい細胞、薬剤に抵抗性のある細胞などが現れ、腫瘍集団が性質の異なる細胞で構成されることとなる(heterogeneity:腫瘍の不均一性)。
b.−悪性細胞にはいくつかの特徴がある−
我々は、悪性細胞の特徴として細胞診的に何をあげることが出来るだろうか。1)クロマチンの増加・粗造化、2)核小体・核腫大、3)細胞の大きさ・核形態・クロマチン分布等に関する細胞間のばらつき、4)細胞の重積性、5)核間距離の不均一、6)細胞配列の乱れ、7)細胞集塊のほつれなどは、多くの人が指摘する所見である。その他にも多数の特徴が各々の異なる腫瘍について言及されているが、上述の悪性細胞の特徴は、核の異常(1、2)、細胞間の異型のばらつき(3)、および細胞集塊の異常(4−7)に大別することが出来ると思われる。以下、悪性細胞の特徴をこれら3つの事柄に分けて述べる。なお、悪性細胞は良性細胞や正常細胞と全く異なるものではなく、これと良く似ることがあるので、各臓器や組織の正常細胞や良性病変の知識も必要である。
c.−細胞診ではクロマチンの異常に注意が払われる−
核の異常について述べる前に、まずクロマチンについて説明する。この理由は、細胞診では悪性細胞に関するクロマチンの記述が非常に多いからである。クロマチンは、ヘテロクロマチン(異質染色質)とユウクロマチン(真正染色質)に大別される。前者は染色性が濃く後者は淡い。そして、前者は遺伝子発現(複写や転写など)が不活発な染色質領域で、後者は活発な領域とされる。
悪性細胞のクロマチンの記述として以下のようなものをあげることが出来る。1)クロマチンが全体に増加する、2)均等で細顆粒状のクロマチンの増加がある、3)クロマチンが粗く凝集する4)クロマチンの淡明化がある、5)核膜の肥厚がある(クロマチンが核膜に付着する結果)等である。これらの表現は、クロマチン増加(1、2)とクロマチ
ン分布(3−5)に関する記述である。悪性細胞のクロマチンが増加しているという時、
核が通常より濃く見えることを指している。クロマチン分布は、ヘテロクロマチンとユウクロマチンが形作る特有の模様である。これは微妙な濃淡パターンなので、細顆粒状、粗で不均等、核膜の不規則な肥厚、淡明化などの特殊な表現がなされる。なお、正常細胞は、クロマチンの増量がほとんどなく、クロマチンは細かく均等に分布する。
d.−クロマチンの異常は何に由来するだろうか−
悪性細胞の核の異常は経験的には確かな事実のようだが、クロマチンの増量やクロマチン分布の異常を証明する科学的証拠があるのだろうか。
まず、クロマチンの増量について見てみよう。サイトフォトメトリーによれば正常細胞と悪性細胞のDNA分布に大きな違いがあることが指摘されている。すなわち、正常細胞では大半の細胞が2倍体のDNAを持つの対し、悪性細胞のDNA量は増加し4倍体や6倍体などの分布があり、かつ異数体(正常DNA量の整数倍ではない)に分布を示す細胞がある。また、腫瘍の染色体分析では種々の異常染色体が見出され、大腸癌や肺癌の一部では染色体数が55−70以上(正常46)のものも認められる。重要なことは染色体異常が個々の細胞で異なることである。
このように、細胞診的に観察されるクロマチンの増加は、腫瘍のDNA量の増加、染色体数の異常を反映している可能性がある。しかし、乳腺、甲状腺、前立腺、卵巣、子宮内膜癌の一部ではDNA量が正常であり、全ての腫瘍がクロマチン増加を示すとは限らない。
次に、クロマチンの分布について見てみよう。悪性細胞と正常細胞との大きな違いは、前者が常に増殖状態にあり、後者の大部分が休止期にあることである。クロマチンは細胞周期の時期によって凝集が異なり、G1期ではクロマチンの状態が時間とともに変化し、S期では早期にクロマチンの凝集が起こることが指摘されている。これらを考慮すれば、連続的に細胞周期を繰り返す悪性細胞は、クロマチンの凝集と淡明化などが正常細胞に比して観察されやすいのではないかと思われる。また、悪性細胞は増殖が強いために、変性や壊死、アポトーシスなどに陥りやすいが、クロマチンの凝集や粗造化がこれらの現象の早期におこることも指摘されている。
以上、悪性細胞のクロマチン分布は、増殖の盛んな悪性細胞の、細胞周期の違いによるクロマチン変化、早期の変性、細胞死のクロマチン状態を指しているのかもしれない。
e.−悪性細胞は核や核小体が大きくなる−
悪性細胞は、核が大きくなることが多い。核は休止期の細胞に比し増殖期の細胞で大型化する。悪性腫瘍は増殖期の細胞であるから、休止期にある正常細胞より核腫大が目立つのは当然である。しかし、正常細胞でも増殖期のものがある。例えば、潰瘍辺縁粘膜の再生上皮や肉芽組織内の間葉系細胞である。あるいは、ウィルス感染細胞でも核腫大が認められる。悪性細胞では核が大きくなるため、核胞体比も増加する傾向がある。しかし、正常細胞でも芽球や基底細胞は核胞体比がかなり高く、良性細胞でも増殖期のものは核胞体比が増加する。
悪性細胞は核小体も大きくなることが多い。3ミクロン以上の核小体があれば悪性であるとか、ホジキン細胞は周囲に明暈を有する大型核小体があると表現される。しかし、正常細胞でも蛋白質代謝や細胞増殖の盛んな細胞は核小体が大きい。なぜなら、核小体はリボゾーム前駆体の産生部位だからである。従って、これも単独では悪性細胞と正常細胞を区別する指標にはならないと思われる。
f.−悪性細胞は個々の細胞にばらつきが大きい−
悪性細胞には、上述のように比較的特徴的な核変化がある。そして、正常細胞や良性細胞に比べ、この変化のばらつきが細胞間で大きい(所見差がある)。ある細胞ではクロマチンが全体に増加し、濃縮するものがある一方、他の細胞ではクロマチンの淡明化が目立つ。核サイズに3倍以上の差があったり、核小体の数や大きさにもばらつきがある。なお、正常細胞との差(隔たり)は異型として表現される。そして、異型が強い時には、細胞間で異型のばらつき(所見差)も大きいことが多い。
悪性細胞の異型のばらつきは何に基づくだろうか。これは腫瘍の不均一性によると考えられる。不均一性とは、1個の細胞から発生し臨床的な腫瘍となるまでの長い過程で、腫瘍が異質な細胞によって構成された集団となる現象である。この集団では、個々の構成細胞に遺伝子異常や染色体の数などに違いが認められ、それが細胞形態に反映される。個々の細胞の違いは、悪性腫瘍の基本的性格であり、細胞診断に重要である。そして、複数の悪性の所見が観察され、そのばらつきが細胞間で大きければ、悪性である可能性が高いといえる。しかし、低悪性度の腫瘍は、この尺度だけで判定が出来ないことがあるので、各々の低悪性度腫瘍について独立した診断基準が求められる。
g.−悪性細胞は異常な集塊を作る−
悪性細胞の集塊は一般的に重積性が強い。これは細胞診断に重要な変化である。悪性細胞集塊は細胞密度が高く内部の観察が難しいが、顕微鏡の倍率をあげて明るさを強くすると観察は可能である。この時にピントを微動させると3、4個の核が重なり合っているのが見出せる。これを重積性があるという。重積性は悪性細胞の接触阻止の消失という現象と関連するかもしれない。接触阻止とは、正常細胞が培養皿で平面的に密接すると増殖を止める現象である。悪性細胞ではこの現象が消失し、細胞同士が重なり合って増えるので、接触阻止の消失という。分子生物学的には、多数の癌で見られるRas遺伝子産物がこの現象と関連すると考えられている。
悪性細胞の集塊は、平面上で隣り合う2個の核間距離を観察すると、均等ではなく各々が微妙に異なる(核間距離不均一)。核が丸い時には観察が困難だが、楕円形ないし紡錘形である時には核の長軸方向が一定でなく、隣り合う核同士で直交することも認めることが出来る。これが核配列の乱れである。さらに、集塊の辺縁で核が突出したり、不整集塊が分枝する。これが集塊のほつれや乱れである。この集塊の周囲には集塊内の細胞と同じ細胞が孤在性に見られることがある。そして、核間距離の不均一、核配列の乱れ、集塊の乱れは分化の低い癌ほど容易に観察されるが、分化の高い癌でも丹念に観察すれば多くに見出すことが出来る。分子レベルではこの現象を細胞接着分子(カドヘリンなど)の異常で説明できるかもしれない。 |