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和合せいれいの里「みるとす」介護福祉士

尽きない知的探求心。大好きな日本で夢をかなえたEPA介護福祉士。

 浜松市の中心部からバスで30分。春は桜が咲き、夏は蛍が舞う、秋は木々が色づき、クリスマスにはこども園の園児たちの讃美歌が聞こえる。この自然に囲まれた和合せいれいの里は、高齢者・障がい者・子どもの施設で構成される福祉ゾーンである。その内の一施設である障害者支援施設「みるとす」で働くパラデロ・レスリ・ゲイ・オブラ(通称:レスリ)は、フィリピン共和国から来日し、森町愛光園で実務経験を積み、日本の介護福祉士国家試験に合格した。EPA介護職員。レスリの文化を越えた奮闘に迫る。


i am「パラデロ レスリ ゲイ オブラ」

家族を支えたい。日本で働きたい。夢をかなえるため日本へ。

いつも温かく応援してくれる大好きなフィリピンの家族

 群島から成るフィリピン共和国の面積のうち三分の一を占めるミンダナオ島。そこに「アジアのラテン都市」と呼ばれ、スペイン文化が色濃く残る人口約70万人のザンボアンガ市がある。美しいヨーロッパ様式の建物が建ち並び、第1次産業が盛んなこの街で、レスリは生まれ育った。
 「レスリ!危ないからいい加減に木から下りなさい!」。三人兄弟の末っ子として育ったレスリは、木登りやメダカ捕りが大好きなおてんば少女で、危なっかしいことばかりしては両親によく叱られていた。中学生になると周囲の友人たち同様に日本のアニメやドラマ、歌に興味を持ち始めた。日本文化に触れれば触れるほど、「日本てどんな国?」「どんな人たちが住んでいるの?」と、日本という国そのものに興味を抱いていった。
 レスリは祖父母を脳疾患や心疾患で亡くしている。闘病中の祖父母の様子を家族から聞き「家族にもっと医療の知識があれば、おじいちゃんおばあちゃんは長生きできたんじゃないのか・・・。それなら私が医療知識を身に付けて家族の助けになりたい」と思った。レスリは看護師になることを目指し、看護学部がある大学へ進学した。
 大学入学後も、レスリは変わらず日本アニメやドラマが好きでよく観ていた。ある時、レスリは日本語教室が大学内で開かれていることを知った。看護師の勉強の息抜きとして、週2時間、授業を受講することにした。そこでレスリは2名の運命の人物と出逢う。1名は後にEPA(※1)の同期でもあり、夫ともなるアンジェロ。そしてもう1名はこの日本語教室のフィリピン人教師。その教師はかつて日本で看護師として働いており、授業の合間に話してくれた日本での経験談はレスリの進路に対する考えを刺激した。「私も兄や姉のように家族を支えたい。それなら好きな日本で看護師として実現させよう!」いつしか日本で看護師として働き、親孝行をすることがレスリの夢でもあり目標にもなった。なぜならフィリピンでは学校を卒業すると、大黒柱の一人として一家を支え、親孝行をすることが一人前の証であり、当然のことであったからである。フィリピンの看護師資格を取得したレスリは、EPAという制度を知った。看護師コースの候補者にエントリーしたが、新卒のレスリが応募できるのは介護福祉士(※2)コースのみであった。大家族文化のフィリピンでは、高齢者の介護を施設に頼ることなく、家族で看るのが一般的である。そのため介護の仕事に、レスリはなじみがない。介護の仕事について調べていくと、専門性を持って人と接し、人を助けるのは看護師も介護福祉士も同じだと分かった。一時は迷ったが、前向きで好奇心旺盛なレスリは、聖隷福祉事業団(以下、聖隷)を受け入れ先に選び、夢と目標に近づくために日本行きを決意した。

ポジティブ思考のレスリすらも苦しめる、異文化の壁

 渡日の当日は偶然にもレスリの父の誕生日であった。数日前にザンボアンガの実家を発つ時には、誕生日パーティーが開かれた。「やりたい事があるなら、がんばってやり遂げなさい」と父はレスリを思いっ切りハグして送り出してくれた。娘を案ずる父の目には涙が光っていた。社会人の兄は「もしも何かあったらこれを使いなさい」とレスリに餞別を持たせてくれた。「大好きな家族のためにも、日本で長く働き、必ず成功するんだ」。家族の絆がレスリの覚悟をさらに強くした。不思議なことにレスリには日本へ行くことへの不安や心配はなかった。 2010年5月9日、レスリはフィリピンを旅立った。
 マニラの空港から3時間、レスリは聖隷に就職する4名のEPA介護福祉士候補者と共に日本の地に降り立った。まずは名古屋市内で日本語研修を受けた。初めての独り暮らしだが、生活用品も一式準備されており、特に問題なく過ごすことができた。
 そして半年後の2010年11月、静岡県の森町愛光園(特別養護老人ホーム(※3))に配属された。そこでレスリは大きな壁にぶち当たることになる。フィリピンで日本語に慣れ親しみ、名古屋市内での語学研修も難なくこなしたレスリであったが、日本語を、日本という国を「勉強する」のと「経験する」のとでは大きな違いがあった。日本独特の縦割り組織が理解できず、空回りした。壁に寄りかかって亡くなったご入居者を見送り叱責を受けた。そして、開放的気質なフィリピン人に対して、保守的な気質の日本人。同僚の自宅へ遊びに行きたいと申し出ると、困惑されてしまった。町では「日本語が上手だね」と言われるけれど本当にそう思っているのか。レスリの中で人々との溝が少しずつできていった。現場での生きた言語、文化を前にすると、自分の意見が思い通りに言えない。早くここでの仕事に、生活に慣れたいのになじめない。こんな状態で仕事をうまくやっていると言えるのだろうか?
 期待と希望だけを胸に抱いて来日したのに、現実とのギャップに気持ちばかりが焦る。つらいことがあっても優しい笑顔で見守ってくれていた家族は、振り返っても今はいない。人々とのちょっとした言葉や気持ちのすれ違いが、些細なミスが、「心細さ」となってレスリを押しつぶそうとしていた。常に前向きなレスリであったが、堪え切れずに幾度となく、一人 孤独に部屋で泣いていた。
 初めてEPA候補者を受け入れた森町愛光園のスタッフも、レスリに慣れてもらおうと試行錯誤をしていた。互いに一生懸命なのだが、なかなか歯車がかみ合わなかった。

漢字で自分を表現した自己紹介の様子(ウエルカムパーティにて)

最初の職場である森町愛光園

夢がかなう時。レスリの周りには多くの人々がいた。

書き込みをしながら毎日必ず勉強した

 異文化の壁に直面したレスリであったが、介護福祉士試験の受験勉強の手だけは絶対に止めることはなかった。EPA介護福祉士候補者に与えられた時間は3年間。この3年間で実務経験を積み、受験資格を取得し、国家試験に合格しなければ、少しの猶予はあるが帰国だ。1年目は日本語の自己学習をメインに、 2年目からは無償で支給される過去問題集を解いた。日本人の研修責任者・学習支援者が毎週、専門用語の解説や分からない点について教えてくれた。医療・福祉のことは専門的に勉強し、実践も積んできたから分かるが、法律に関する問題には苦戦した。難しい言い回しで書かれており、文章を読解することから始めなければならなかった。3年目も引き続き過去問題集を解き、分からない事があれば自ら介護の参考書を引いて調べた。また法人本部のEPAチームから出された宿題もこなしていった。3年間、毎日4時間コツコツと勉強を続け、来日時には「N3」であったレスリの日本語能力試験(※4)のレベルは、この時最高の「N1」レベルにまで達していた。幾度となく「フィリピンへの帰国」が脳裏をかすめたレスリであったが、多くの人が支え、応援してくれた。テレビ電話を通して毎日のように母が、「帰ってきてもいいけど、どこにいても大変なのは同じよ。あなたが始めた事なのだから、最後までやりなさい」「自分なりのやり方をみつければいいのよ。楽しみなさい!」と励ましてくれた。同期でもあり、この時恋人でもあったアンジェロがいつでも相談にのり、気分転換にも付き合ってくれ、支えてくれた。女性のプリセプター(※5)が彼女の自宅にレスリを招き、食事会をひらいてくれた。彼女の母親がレスリに着物を着せてくれたこともあった。法人本部のEPAチームがレスリを常に気にかけ、定期的に森町愛光園を訪れてくれた。ご入居者が孫のようにレスリを可愛がってくれた。そして何よりの支えになったのは「日本で介護福祉士として長く働き、フィリピンの家族を支えたい」というレスリの夢と目標であった。
苦しみぬいた末、レスリは「自分の仕事をきちんとやろう」というシンプルながらも確固とした原点に立ちかえり、自分を励ましながら、徐々に異文化の壁を越えていった。多くの人の支えと自らの努力で、3年の間に介護の仕事の知識も付き、楽しさも分かってきた。アンジェロからは「絶対に一緒に合格して、結婚しよう」とプロポーズをされていた。万全を期して、レスリは介護福祉士国家試験に挑んだ。
 運命の合格発表当日。試験結果がレスリに告げられた。来日から3年が経った2014年3月27日・・・。ついに「合格」を勝ち取った。 「夢をかなえた!これでもっと日本で働ける!フィリピンの家族に、すごいねって誇りに思ってもらえる!」レスリの顔は喜びの笑顔と涙であふれた。そしてレスリを支えてきてくれた全ての人も同じように喜び、レスリをたたえた。

介護福祉士取得を通しまた新たな目標へ

 無事に介護福祉士を取得したレスリは、母国フィリピンで結婚式を挙げ、その後新たな命を授かった。聖隷三方原病院で第一子出産後、8カ月で現場復帰。森町愛光園から和合せいれいの里みるとす」(障害者支援施設)に異動となり、再スタートを切った。平日は勤務先にある託児所(聖隷めぐみ保育園)に子どもを預け、休日は夫か自分のどちらかが世話をできるよう、上司に相談し勤務調整をしてもらった。フィリピンでは結婚や出産を機に仕事を辞める女性はめったにおらず、女性管理職の割合は例年世界でも上位にランクインする。大家族のため親族に子どもを任せる、またはメイドに預けることが一般的であるため、大半の家庭は共働きで家計を回す。日本は取り巻く環境が異なるためか、仕事を離れる女性が多いことを知り不思議に感じた。日本に生活の場を移したレスリにはもちろん近くに親戚もいない。フィリピンでの子育てのようにはいかないが、自分の夢のため、子育てをしながら共働きをする道を迷わず選択した。異動先の施設でも、利用者の話を丁寧に聞き取り、信頼関係を築いていった。レスリは看護の知識もある分、医療的見地からも利用者の状況を把握することができる。介護の仕事の面白さは、毎日の関わりの中で利用者との愛情を感じ、また人の命を支え、家族と利用者をつなぐことができることにあるとレスリは言う。現場で食事や入浴、排泄介助をするうち、もっと利用者に寄り添った関わりができないかと考えるようになった。2018年にはケアマネジャー(※6)の資格も取得し、仕事の領域を広げていった。「チャンスがあれば積極的にキャリアアップも狙い、自分のスキルも一層高めていきたい」。レスリの知的探求心は尽きない。

目標を達成しフィリピンで結婚式を挙げた

レスリの異動により、英語に興味のある利用者は「英語が話せる」と喜んだ

日本で新たに見つけた親孝行。日本でしっかりと根を張り生きていく

 来日して今年で9年目になる。EPAの後輩も増え、夫のアンジェロは和合せいれいの里EPA職員の世話役としても活躍している。新しく入職してくる後輩を見るたび、レスリは昔の自分を思い出す。南国育ちのため、初めての冬はあまりの寒さに驚いた。母国ではエアコンは贅沢品。高い電気代がかかるのではとなかなか暖房がつけられなかった。今となっては些細なことだが、小さなことも日本での暮らしの不安の種になっていたあの頃。同じ道を通って来た先輩として、公私ともに相談に乗り、安心して自分の目標に向かって突き進めるよう支えてあげたい。これまで、日々研鑽を重ねる中で「もっと詳しく知りたい」「この知識も介護の仕事にいかせるのでは?」と目標ができ、そのたびに自分は新たな道を切り開いてきた。夢をかなえるため、一つひとつ自分で目標を設定して努力することが次のステップアップにつながる。介護福祉士資格の取得はゴールではなく、長い人生におけるキャリアの第一歩だ。中には夢半ばで燃え尽きて帰国してしまう者もいるが、後輩には、資格取得を足掛かりとして新たな世界に挑んでほしい。そのためのフォローは惜しまない。将来自分がどう生きていきたいか、常に目標を持つことが高いモチベーションを保つ秘訣でもある。レスリも今では高いプロ意識を持つ介護福祉士に成長した。日本でしっかりと根を張り、新たな家族や仲間たちに囲まれ、忙しくも幸せな日々を送っている。昔も今も、これからも母国で暮らす大好きな家族への仕送りは欠かさない。フィリピンで人気の日本観光をさせてあげられるのも新たに見つけた親孝行のひとつだ。「故郷の家族のため、新たにできた自分の家族のためにも、大好きな日本で働き、生きていきたい」。チャンスをくれたEPA制度と関わってくれた全ての人々に感謝している。挑戦し続けるレスリの姿は、また誰かの背中を押すだろう。




※1 ・・・経済連携協定(Economic Partnership Agreement)。特定の国や地域の間で、関税等を撤廃し、モノやサービスの貿易の自由化を図ることを目的とする「自由貿易協定(FTA)」を基礎としながら、投資や人の移動、知的所有権など、より幅広い対象分野について、経済関係の強化を図ることを目的とする協定。
※2・・・介護福祉士は、「社会福祉士及び介護福祉士法」に基づく名称独占の国家資格。介護福祉士の名称を用いて、専門的知識及び技術をもって、身体上又は精神上の障害があることにより日常生活を営むのに支障がある者につき心身の状況に応じた介護を行い、並びにその者およびその介護者に対して介護に関する指導を行うことを業とする者をいう。
※3・・・在宅での生活が困難になった要介護の高齢者が入居できる公的な「介護保険施設」の1つ。
※4 ・・・公益財団法人日本国際教育支援協会と独立行政法人国際交流基金が主催の、日本語を母語としない人を対象に日本語能力を認定する検定試験。最も易しいレベルがN5で、最も難しいレベルがN1。
※5・・・「プリセプター」と呼ばれる先輩介護職員が、「プリセプティ」と呼ばれる新人介護職員を数ヵ月~1年かけて教育・指導していくこと。
※6・・・介護を必要とする方が介護保険サービスを受けられるように、ケアプラン(サービス計画書)の作成やサービス事業者との調整を行う、介護保険に関するスペシャリスト。介護支援専門員ともいう。

みるとす」のチームの一員として活躍中

日本でできた自分の家族。夫と今年3歳になる娘と。

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和合せいれいの里みるとす 施設概要

所在地〒433-8125 静岡県浜松市中区和合町555
電話番号053-478-0882FAX053-476-6511
開設日2003年4月定員・定床数42名
施設種別•障害者支援施設
•生活介護
•短期入所
•相談支援事業
ホームページこちらをご覧ください


より大きな地図で 障害者支援施設みるとす を表示
「障害者支援施設みるとす」は和合せいれいの里内和合愛光園の中にあります。

和合せいれいの里「みるとす」で一緒に働きませんか?

 当施設は、介護の必要な障がいをお持ちの方が日常生活の支援を受けながら、各人の個性を活かした家庭的な生活ができる住居です。各人が個室を持ち、自分らしさを大切にしつつも、仲間たちとの交流や社会活動を通して、一人ひとりが生きがいを持って生活していただけます。「自分らしい生き方」「自分で作る暮らし」「役割ある活動」「安心できる生活」の支援を目標に、 光あふれ風通しの良い生活空間の創造を目指します。
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