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【最新号】聖隷横浜病院 医師

 JR保土ヶ谷駅から循環バスで約3分、小高い丘の上に立つ聖隷横浜病院は、2003年に国立横浜東病院の経営移譲を受け開設。横浜市の中核的医療機関として急性期医療を担う聖隷横浜病院に、2016年リウマチ・膠原病センターが設立された。そこで、リウマチ・膠原病などの全身性自己免疫疾患で悩む患者を救うべく、多職種で構成された診療チームを率いるセンター長の山田秀裕に迫る。

「2018年度版 患者が選ぶ名医ランキング いざというとき頼れる医師ガイド※1」に掲載されました!


i am「山田 秀裕」

高校の卒業レポートと師が引き合わせたリウマチ医への道

ここ一番の時に着る、還暦祝いに妻が仕立てた
スーツで取材に臨む。第1ボタンは妻の着物の帯留め。

 高校時代、山田は理数系科目や運動が得意な生徒だった。歴史の授業には興味が惹かれず、授業を抜け出し仲間とテニスをしている方が楽しかった。だから卒業後も理工系に進もうとぼんやり考えていた。高校3年生の1月、いつものようにテニスをしていると、歴史の教師に呼び出された。「このままの成績では、卒業させることはできない。卒業をしたければレポートを書きなさい」。と叱責を受けた。レポート作成のために渋々読み始めた明治維新の本との出逢いが山田の運命を変えた。方程式や理論では解くことができない、維新の志士たちが新しい日本をつくっていくドラマティックな人間の営みに、強く惹かれた。人間そのものに直接かかわる学問の方が遥かに面白いのではないか。そう思うと、今まで好きだった物理や化学が急に色褪せてみえた。得意な理数系の知識を利用して人間相手の勉強ができるのは医学部ではないかと進路を急転換。一浪の末、慶應義塾大学医学部に入学した。
 飲み会をエサに釣られ、山田は大学3年生から医事振興会に加わった。医事振興会とは、無医地区※2医療に共感する医師が、へき地で住民の健康診断をし、その結果を持って医学生が家庭訪問をして健康指導を行う団体だった。しかし山田たち学生が懸命に血圧や食生活について説明をしたところで、住民は耳を傾けてくれなった。それより、夜、住民と囲炉裏を囲み、一杯飲みながら話をする方が理解し合えた。何軒も家庭訪問をしているうちに、酔いつぶれて雪の中で寝てしまったこともあった。医療者と患者という付き合いではなく、人間同士の付き合いの大切さ。この活動での経験が、山田の医療者としての礎となった。

患者さん一人ひとりとじっくり話しをし、
寛解を目指して治療方針を決めていく。

 内科研修を終え、27歳の山田が選択したのはリウマチ内科。その理由は二つある。一つは、山田はじっくりと深くものを考え、確実な結論を出す思考プロセスを得意とするからだ。後述するが、リウマチは長い付き合いとなる病のため、その患者の一生を見据えてじっくりと思考をする必要がある。もう一つは、当時の慶應義塾大学医学部リウマチ内科の本間光夫主任教授の存在だ。本間教授は患者一人ひとりの病状を深く追求してゆく。表面上だけの薄っぺらな医療は決して許さない厳しい医師として有名であったが、山田はその指導スタイルに強い感銘を受けた。リウマチ内科入局から5年後、医師としては新米の山田に本間教授は臨床研究のプロジェクトを任せてくれた。夜遅くまで研究をしていると、毎晩11時頃に様子を見にきてくれ、山田たちを労いながら一緒に酒を飲んだ。「酔った本間先生をご自宅までお送りすることもしばしばでしたよ」と笑いながら懐かしくその当時を振り返る。本間教授は後進の将来を親身に考え、人間同士の深い繋がりを大切にする熱心な指導者であった。山田は本間教授を医師として、人として、心から尊敬し、憧れた。それは山田だけではなく、多くの教え子たちも同じであった。現在、本間教授の教え子の多くが全国の大学のリウマチ内科で教授として活躍している。この本間教授が山田の生涯の師となり、その後の人生にも大きな影響を与えることとなる。

医師として、人として、最も幸せな時間を過ごした米国留学

米国留学中、ギリシャ人とドイツ人の親友と。

 慶應義塾大学リウマチ内科入局から8年がたった1989年、山田は細胞内シグナル伝達に関する研究のために妻と共に渡米した。研究に没頭でき、多種多様な友人ができたこの期間を「人生で一番幸せな時間であった」と山田は振り返る。
 世界中から集まった研究者と共同研究をしたが、その中で日本人は山田一人であった。ドイツ人、ポーランド人、ギリシャ人、イタリア人、みんな話好きの酒好きで、飲みニケーションが好きな山田はすぐに彼らと意気投合。研究以外の時間は彼らと過ごした。バーや各々の自宅に集い、互いの国の話をして親交を深めた。ドイツ人から1989年に崩壊したベルリンの壁についての新鮮な意見や、ポーランド人からはロシアの見方を聞いたりと、山田が知らなかった世界を彼らは見せてくれた。もちろん彼らは日本についての質問もしてくる。説明ができなかった山田は、必死になって日本の歴史・文化の勉強をした。すると、知らなかった日本の良さが見えてきた。「高校時代は苦手だった歴史でしたが、アメリカで生きた勉強をしました。研究の論文よりも歴史の勉強をしたかもしれないです」と笑いながら山田は話す。また、料理上手な妻の手料理が評判となり、山田の家では毎週末ホームパーティーが開かれ、世界中から集まった研究者たちの親睦はより深まっていった。



米国滞在最終日に、アメリカ国立衛生研究所でお世話になった
Ballow博士とその家族と。

 充実した留学生活を送る山田であるが、渡米数か月後に忘れられない経験をした。当時、山田はある指導教官の下で研究をしていた。その指導教官がねつ造した論文を投稿した。山田は別の共同研究者にその事実を相談し、相談を受けた研究者はすぐに科学雑誌出版社へ連絡をして論文を取り下げた。投稿した指導教官は激怒し、この一件は諮問(しもん)委員会に取り上げられる事件へと発展した。委員会での答弁はもちろん英語。渡米後たった数ヶ月後で、しかも指導教官に対し一介の研究者である山田は圧倒的に不利であった。日本に帰国させられる覚悟を決めて諮問委員会に挑んだ。だが、山田は勝った。山田と親交を深めてきた研究仲間が助けてくれたのだ。これを機に、研究者間で山田の名前は広がった。もちろん、仲間との結束力も更に強くなった。
 渡米前、山田は日本人と世界の人々は異なると思っていた。しかし世界中の人々と友人になり、時にはその友人たちに支えられピンチを乗り越えた山田の考え方は変わった。相手の事を思いやる気持ちは万国共通。良い人もいればそうでない人もいる。そして日本の歴史文化の良さを外に出て初めてみつけた。米国で経験したこと、感じたことは、山田のその後の人生の価値観や行動の規範となった。

学生たちと共に成長した聖マリアンナ医科大学時代

2001年 聖マリアンナ医科大学時代。
当時の教え子である5年生たちと。

 一方、山田は在米中に聖マリアンナ医科大学に勤務する先輩医師から幾度となく、「うちへ来ないか」と誘われていた。しかし、米国での暮らしを気に入っていた山田は、誘いを断り続けていた。ある日、本間教授が米国の山田を訪ねてきた。ひとしきり仲間たちと食事をした後、最後に「残りなさい」と言われ妻と3人で話をした。「なぜ聖マリアンナ医科大学に行かないのだ?」 と本間教授による山田の説得が始まった。その熱意に根負けをした山田はついに了承した。その瞬間、帰国の返事が聞けて安心し酔いが回ったのか、本間教授がバタッと倒れた。新米医師の時のように、かついで本間教授を送りながら、山田の将来を真剣に考えて全身全霊で山田を説得してくれた本間教授に感謝の気持ちでいっぱいになった。
 3年間の米国生活に終止符を打ち、1992年から山田は聖マリアンナ医科大学の難病治療研究センターに籍をおいた。多くの医師は研究をしていたが、山田は臨床を担当した。全国から患者が受診する医療機関で、希少な症例も多く、有意義な臨床経験であった。また、病棟長でもあった山田は若手医師の指導も行い、病棟で急変があれば、夜中でも駆けつけた。若手医師が育ってくると、呼ばれる回数が減ってくる。肌で感じる成長が嬉しかった。また、彼らと共に研究もした。研究は夜遅くまで続き精神的にも身体的にも辛い。しかしそれを乗り越え、良い研究結果が出て論文が評価され、教え子たちがアメリカや欧州のリウマチ学会で発表が出来た時、その瞬間が指導者として最も嬉しい瞬間だったと言う。そんな山田の後進育成ポリシーは「医療については一緒に責任を負う、プライベートの相談は一緒に酒を飲む」だ。かつての本間教授の面影が垣間見える。

聖マリアンナ医科大学から聖隷へ 臨床で行えるすべてを今

聖隷横浜病院 リウマチ・膠原病センターのスタッフと。
(前列:医療秘書と看護師 後列:医師)

 24年間勤めあげた聖マリアンナ医科大学を退官し、2016年山田は聖隷横浜病院リウマチ・膠原病内科部長として入職した。60歳、人生最後の挑戦が始まった。「これからの医師としての時間を、聖隷横浜病院リウマチに悩む患者とその家族のためにささげたいと思いました。当時は、大学での研究、医師としての臨床、さらに教官としての学生や医局員への指導も重なり、正直三足のわらじに疲弊していました。実は、60歳で白内障の手術をしたこともあり、大学の教官として最前線に立てる時間はもうそう長くない。最後に自分は、医師として臨床一本でと腹をくくりました」と語る。「四半世紀お世話になった大学を離れることは勇気がいりました。一方で、リウマチ・膠原病診療を病院の将来構想の一つにしたいという聖隷横浜病院と私の抱負が合致したことは運命のようでした」
 新外来棟の建築工事が進む聖隷横浜病院では、地域ニーズをいかに的確にとらえ、質の高い医療を提供していくか、将来構想を入念に描いている最中である。今、山田は医師として自分がやってきた診療の質を高めていきたいと使命感にあふれてもいる。診療はもちろん医師の仕事ではあるが、医師一人では最善の医療を提供できないことを長い経験から身に染みてわかっている。病理医看護師薬剤師臨床検査技師医療ソーシャルワーカーそして医療情報管理課さらには、清掃スタッフまで、多くの職種の連携・協力がなければ、ほころびが出て、患者に影響が出てしまう。2016年新天地の聖隷横浜病院で山田は仲間づくりからスタートした。


高い専門性と最新薬を駆使したリウマチ治療

リウマチ治療の質の向上を目指して、
地域で年複数回講演会を開催している。

 リウマチという病名はよく聞くが、一体どのような病気なのか山田に聞いてみた。「簡単にいうとリウマチは、リウマチ体質を持っている人に発症します。その体質を持つ人は転んで関節を痛めると、腫れや痛みが治りません。そして別の関節に痛みや腫れが飛び火します。その原因は、内臓粘膜の細菌叢(さいきんそう)と人体の免疫のバランスが崩れることで自己免疫現象というリウマチ体質ができあがるからだといわれています。その発症を抑えるためには、細菌と人体が折り合いをつけて共存共栄していくことが重要です。例えば食品添加物は腸内細菌のバランスを崩しやすくします。食品添加物の過剰摂取に注意をすることは予防の一つと言えます。便秘も腸に負担をかけますから、発酵食品を食べることも良いですね」と説明する。また、リウマチは付き合いの長くなる病気であるため、山田は初診時から患者を一生診ることを意識する。診療の場は、人生相談の場ともなる。全身疾患であるリウマチ・膠原病は、病気の影響が体のいたる所に出ることがあるため、全身を常に診ていく必要がある。そのため、手を切った、下痢をしたなどちょっとしたことでもすぐに報告して欲しいと山田は言う。
 山田に早期発見の重要性と初期症状を感じたときのアドバイスはないか聞くと、「関節が痛くて1週間以上改善しない・こわばりがある場合や、起床時の歩き始めに足の指に痛みがあるときには、リウマチ専門医の診察を受けるべきです。リウマチ専門医でない整形外科ですと、鎮痛薬が処方されてしまうことが多いです。それは、一時的に痛みを感じさせなくしているだけで、根本原因の炎症は止められていません。リウマチの関節炎は鎮痛剤だけでは全く抑えられません。それを数カ月繰り返している間に関節破壊が進行してしまいます。リウマチは早期発見できれば、寛解(かんかい)※3を目指すことができます。ガン治療と同様に進行してしまってからでは難しいため、早期発見が重要です」と教えてくれた。山田は、早期発見のためにも気軽にリウマチ科を受診することを薦めている。

日常生活で困っている些細なことでも
気軽に相談できる聖隷横浜病院 リウマチ看護外来

 そして、山田には長年の経験から数ある薬を駆使した確固たる治療方針がある。聖隷横浜病院着任後、山田は院外の調剤薬局も含めて、薬剤師向けにリウマチ治療の薬剤の勉強会をすぐさま実施した。製薬メーカーの提示している使用方法の多くは欧米における使用方法であるため日本人の体格・体質には合わないことを詳細に説明した。だからこそ、山田は、教科書通りの薬の使い方を決してしない。新薬を駆使し、日本人の患者一人ひとりにあったテーラーメイド※4の処方を心がけている。
 ステロイドを使わない、使ったとしても極限まで量を抑えて、別の新しい薬を使いこなす。研究してきた実績とともに、日本人の患者に最善の薬を処方する。さらに、看護師が患者の気持ち、症状を丁寧にヒアリングするリウマチ看護外来※5では、リウマチ治療のメインは薬剤であるため薬剤師とも連携して患者への繰り返しの説明を行っている。リウマチ看護外来もまだまだマンパワー不足でもある。安全で質の高い医療の提供に、山田は各職種の強みを生かした最善の道を模索している。

医師としての人生をかけ、リウマチ治療の未来を切り拓きたい

取材:法人本部 秘書・広報課 松林
取材時撮影協力:聖隷横浜病院 総務課 松原

 山田に、今後の道を聞いた。「医師に限らずその他の分野でもリウマチの専門性をもった人材を育成していきたい。そしてそれら人材を通じて質を高め、拡大・拡散していきたい。人を育てるにはまず自分も勉強しなければならない。今でも、そしてこれからも一生勉強です」と熱く語る山田は、医師としての人生をこの病の治療にささげてきた重みとすごみすら感じる。
 山田のリウマチ診療の方針は、ステロイド漬けによる合併症の防止だ。「当院の中でしっかりとやっていくのは当然であるが、私は横浜市内だけでなく神奈川県内にも、脱ステロイドの治療法を広めていきたい」という強い使命感のもと診療にあたる。2017年5月、山田は神奈川県内科医学会でリウマチ・膠原病対策委員会を立ち上げた。その委員会を起点に、リウマチ・膠原病治療の底上げを図っていきたいと志は高い。併せて地域の開業医との連携も不可欠であるため、神奈川県内科医学会を中心に、講演会を年に複数回開催し、症例検討等を通じ地域の医療の質向上に尽力している。

 新しい世界を切り拓(ひら)く明治維新の志士に心を動かされ医師を志し、尊敬する師を目標にリウマチ医となった青年は、30余年たった今でもなお、患者をリウマチの苦しみから救うべく、仲間と共に前へ前へとその道を切り拓いていく。





※1 ・・・2017年6月 「桜の花出版」より発行。
※2・・・医療機関のない地域で、当該地区の中心的な場所を起点として、おおむね半径4㎞の区域内に50人以上が居住している地区であって、
     かつ容易に医療機関を利用することができない地区。
※3・・・リウマチの症状である腫れや痛みがきえた状態。
※4・・・患者の個人差に配慮して各個人に最適な医療を提供すること。
※5・・・2016年10月に日本で初めて開設された。看護師4名で構成。体調・リウマチの症状の確認、自己注射治療への支援、
     新しい治療が開始時の説明などを行っている。医師に言いにくい不安や相談事を解決できるように一緒に考え、患者が安全に治療が継続でき、
     リウマチとうまくつきあって生活できるよう支援する。

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聖隷横浜病院 施設概要

所在地〒240-8521 神奈川県横浜市保土ケ谷区岩井町215
電話番号045-715-3111FAX045-715-3387
開設日2003年3月定員・定床数300床
施設種別
  • 無料又は低額診療事業
  • 併設施設:せいれい訪問看護ステーション横浜
    (訪問看護事業)
ホームページこちらをご覧ください

2019年完成予定の新外来棟


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