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聖隷三方原病院は、地域医療支援病院として、質の高い地域完結型医療を目指しています。
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「平成初期の聖隷三方原病院の思い出から」 鈴木勝雄氏

「平成初期の聖隷三方原病院の思い出から」   鈴木 勝雄(現在:法人監事)

 

 今年、隷福祉事業団は創立80年目を迎えるが、聖隷三方原病院のスタートがその歴史の始まりであり、今でこそ多くの施設を抱える法人となったが、諸先輩の皆様に喜びも苦悩も最も多く提供してきたのが聖隷三方原病院であるとわたしは考えている。

 私が聖隷三方原病院に在籍(事務長として)したのは平成元年から平成5年まで、80年の歴史からいえばほんの一時期に過ぎないが、その時その時に事の大小に関係なく忘れられない出来事があり、これが歴史となっていくのだろうと考えている。

ここでは、私が在籍したころの出来事その他を思い出すままに綴ってみたいと思う。

平成になる直前、昭和62年に聖隷三方原病院では大きな工事が竣工していた。そしてさらに建替えを検討しなくてはならないのが(平成22年現在は残っていないが)、1号館、母子棟、結核棟、ホスピス棟、精神科病棟であり、私が赴任した当時から、何となくこれらの建替えを早期に行いたいという期待が感じられた。しかし、昭和55年及び昭和62年と大きな建築を行ったことで、聖隷三方原病院は疲弊していたことも事実であった。バブル経済が破綻し経済環境も右肩下がりになりつつあり、診療報酬アップも期待できなくなる中、大きな借金にずしりと寄りかかられ(当時の金利は今と異なり6~8%ほどであり、利息負荷も年間4~5億円であったと思う)、どうすればいいんですか? という状況であった。でも聖隷三方原病院には名物(表現に失礼があった場合はご容赦を!)となるような人たちが数多くおり、従って社会環境や病院を取り巻く厳しい環境をものともせず、積極的・建設的意見が次々と出されていたことも事実であった。事務部門ではこれらの意見の整理(経済的裏づけの確認など)に奔走するような毎日であったが、この精神が聖隷精神なのかと当時感心したものであった。

 私が赴任する前から実行に移されていた事業は、ホスピス、救急ヘリコプター、救急部・総診を中心とした24時間365日患者さん受け入れシステムの確立、などなど・・・

 このような日本の先駆的事業を推進していくために、聖隷三方原病院の医療レベルは当時も、またそれ以前からも相当高いものであり、これを支えていく看護・医療技術のレベルも相当なものであったと思う。当然ながら地域の方々からの信頼も高かった。




具体的例を一つ、

 近隣の消防署救急隊の方々とは話す機会が結構あったが、救急隊の人たちは、地域による制約があることは承知しているが、出来るだけ患者さんを聖隷三方原病院に運びたがっていることを数回聞かされた。受け容れ体制と受け容れ後の安心感からと思われた。社交辞令(お世辞)かもしれないが、99%以上?は本心であったと確信している。だから経済的環境は非常に厳しいものであったが、病院に勤務している皆は将来(未来)の、もっともっと安心を届けることの出来る高いレベルの医療実現に向かって仕事をしているんだという実感に満ち満ちていた。

 平成元年はコンピューターも導入前夜であった。それまでは浜松病院に本体を置いての共同利用であったが、当時の回線スピードの制約もあり、どうしてもレスポンスが悪い、このため独自導入が悲願であったが、資金確保は難しい。この為IBMの中古機を使用してのスタートであった。でもこのコンピューターを利用し、外来の当日受診予約システムを独自に開発し、全国に先駆けて稼動させたことは快挙であった。このことによって患者さんの待ち時間が短縮され、結果として駐車場の利用効率もアップし、駐車の待ち時間も短縮されることになり、患者さんに大変喜ばれた。




前述の救急関連のエピソードから一つ、

 平成4年であったと思うが、浜松のある会社の方々が団体で中国を訪れ、万里の長城をヘリにて観光中に事故に会い(亡くなられた方も多く、重症を負った方々は中国の病院にて救急処置)、この方々が中国の病院にて手当を受けたのち、本格的処置は日本で行うこととなり、浜松に近い所へということから小牧空港経由・小牧市民病院に搬送されることになった。小牧への搬送が決まった日の夜、私のところへ副院長から、小牧市民病院へ患者さんが転送されるようであるが、小牧市民病院に連絡して、当院が受け容れの用意があることを伝えて欲しいと電話があった。夜9時過ぎであったと記憶しているが、小牧市民病院へ早速連絡、小牧市民病院救急部長との話し合いの結果、浜松への転送を了解していただいた。翌日当院の救急車と民間の救急車、合計10台ほどを連ねて浜松へ転送、なにしろ14~15名の重傷者であり、三方原病院単独での受け容れは難しく、浜松病院にもお願いし、両病院で受け容れることとなった。マスコミも万里の長城の大事故を大きく取り上げている最中の患者さんの搬送で、TVを含め取材も賑々しいかぎりであった。ただし、夕方の受け容れ後の取材の殆どは浜松病院であったのは、やや心残りではあった。でもその後、全患者さんが無事退院されたことは本当に幸いであった。この件の感想の一つとして、やや不謹慎かもしれないが、マスコミ対応について浜松病院を見習う必要があることを感じた一幕であった。

 私が三方原病院にいる間の大きな変化として院長交代も忘れることが出来ない。10年間頑張って三方原病院を支えてこられた鹿内院長から新居院長へとバトンが渡された。新体制となって患者さんを中心にした病院であることを更に充実させようと「患者の権利宣言」について議論がされ、新体制になって半年後にこれを玄関に掲示することとなった。新居院長の方針であったが、このことも全国の病院に先駆けてのことであった。そして、この翌年に病院の機能評価も受けることになる。

 ここに記した事柄は、平成22年の現在から考えれば、何もかもが当然のことで、遣り残したことが多いのではないかと叱責されるような内容かもしれないが、当時は聖隷三方原病院の皆が精一杯考え、出来うる最高の仕事をしていたと、私は勝手に考えている。

 聖隷三方原病院の、ほんの歴史の一コマに過ぎないが、職員の人たち全員が、この時代にも生き生きと輝いて仕事に励んでいたことを記憶しておいていただきたい。


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