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2021年度

3月

「光の子として歩みなさい。」
エフェソの信徒への手紙 第5章8節

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」。これは、私たち
聖隷こども園「ひかりの子」が一番大切にしている聖書の御言葉です。
 私たちは、毎日を生きる中で、「暗闇」を経験する時があります。辛い時、苦しい時、悲しい時・・・・・・。自分の心が真っ暗になってしまう。自分だけでなくて、家族や友達、周りの人、またこの世界全体が暗闇に包まれてしまい、将来に向けて生きることが出来なくなってしまう。そんな時、私たちは、もう一歩も歩けない、生きる気力がなくなってしまう。そう思ってしまいます。
 しかしその時に、私たち「ひかりの子」に与えられている聖書の御言葉を思い出したいのです。神様は、私たちに「光」を与えてくださります。心を暗くする恐ろしい力が襲ってくる。しかし、この「ひかりの子」で過ごし、つながり合う私たちは「今は主に結ばれて、光となっています」と神様から言われ、「光の子として歩みなさい」と示されます。「光」は、暗闇の中であっても輝きます。生きる一歩を、神の子イエス様に支えられて、歩むことが出来ます。そしてその光の力は、自分の周りの人たち、今、暗闇の中で苦しんでいる人たちに、一緒に立ち上がり、今を生きる力を与えます。「ひかりの子」としてつながり合う皆に、今、その力を与えられているのです。

遠州教会 牧師 石井佑二

2月

「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。」
マタイによる福音書 第10章12節

 イエス様は、神様の救いを宣べ伝えるために、ご自分のお弟子さんを町や村の家々に派遣します。その時に言われるのです。「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい」(12節)。この「挨拶しなさい」とは、聖書の言葉のギリシア語からは「しっかり抱きしめなさい」とも訳せる言葉です。つまりイエス様はここで、平和を失い、悲しみの中にある人のところに行って、その人をしっかり抱きしめる思いで、平和を語り、慰めなさい、と言っておられるのです。しかし実際にそれをするのは簡単なことではありません。苦しみと悲しみの中にある人に、何を言ってあげたら良いか分からない。そう思う事は多いのです。しかしそこでイエス様は続けて言われます。「あなたがたの願う平和は彼らに与えられる」(13節)。この「あなたがたの願う平和」という言葉は意訳でして、正確に日本語にすると「あなたがたが持ち運んでくる平和」となります。それはつまり、こう言っているのです。「今、苦しみ、悲しみの中にある人を、イエス様が、平和と慰めを与える恵みの御力をもって、しっかり抱きしめてくれている。この事実を、伝えて欲しい」。私たちは、イエス様の平和と癒し、慰めを伝える事ができる。そのイエス様の恵みの使者として、平和を失い、悲しみの中にある人のところに、派遣されるのです。

遠州教会 牧師 石井佑二

1月

「子よ、元気を出しなさい。」
マタイによる福音書 第9章2節

 イエス様のもとに、辛い病にかかった人が連れて来られました。その人を連れて来たのは、きっとその病の人の家族や親しい人でしょう。イエス様に何とかこの人の病を治して欲しい。その切実な思いが溢れ、その人を「床に寝かせたまま」連れて来たのです。そしてイエス様は「その人たちの信仰を見て」、この病の人に「子よ、元気を出しなさい」と言われ、その病を癒やしてくださりました。
この「元気を出しなさい」とは、元々の言葉では「勇気を出しなさい」と書かれています。病気になると、私たちは生きる勇気や気力を失います。周りの人のお世話を受け、迷惑ばかりを掛けてしまう、そんな自分が嫌になります。この時、この病の人の心も、その様に暗く沈んでいました。でもイエス様はここで、この人を助けようと一所懸命になる周りの人たちの愛の姿を見て、この人に「子よ」と語り掛けます。
「あなたはこの人たちを通じて注がれている、神様の愛に生きる大切な神の子なのですよ」と言うのです。この人にとって、またこの人を愛し支える人たちにとって、どんなに大きな励ましであったでしょう。イエス様は痛みの中にある人と、その人を支える周りの人たちの姿を深く見つめ、受け止めてくださる。そしてそこに、全ての人に生きる勇気を与える、神様の愛が物語られている、と教えてくださるのです。

遠州教会 牧師 石井佑二

12月

「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」
ルカによる福音書 第2章14節(口語訳)

 神様の独り子イエス様がお生まれくださったその夜、羊飼いさんたちは、町から遠く離れた所、徹夜で羊の番をしていました。この羊飼いの仕事はとても大変で、誰もその仕事をしたがりません。その仕事についたら、ユダヤの地では、もうこの人はきちんとした生活もできない人なのだ、と仲間外れをされてしまのです。町には明るい灯が沢山見えるけれども、羊飼いさんたちはそこには近づけない。仲間外れの、暗い中にいるしかないんだ。そう思っていました。
そんな寂しい気持ちにいた時に、突然、天使が現れます。「恐れなくて良い。今日、救い主イエス様が生まれました。あなたたちもそれを見に、ベツレヘムの町の馬小屋に行きなさい」と言うのです。そうして空に光り輝く天使の大軍が現れて歌うのです。「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。羊飼いさんたちは、イエス様のお生まれという喜びを、世の中の他の誰よりも先だって、最初に知らされたのです。そのことを知った時、羊飼いさんの気持ちが変わりました。そして言います「さあベツレヘムへ行こう。イエス様のところに行って、この素晴らしい出来事を、私たちも喜ぼう!」。
 暗い気持ちの時、寂しい時、その所に、イエス様がお生まれ下さったクリスマスの喜びが来てくれるのです。

遠州教会 牧師 石井佑二

11月

「わたしの恵みはあなたに十分である。」
コリントの信徒への手紙二 第12章9節

 イエス様の使徒パウロは、神様の素晴らしさを宣ベ伝える時に、いつも自分の抱える「弱さ」に悩まされていた、と言います。身体的なことか精神的なことか、分かりませんが、そのせいで自分の働きが上手く行かなくなってしまう、その苦しみがありました。パウロは、この「弱さ」を取り除いて下さるよう、神様に「三度…願いました」(8節)と言います。しかしその祈りの中で神様から示されたのが「わたしの恵みはあなたに十分である」という神様の言葉だったのです。ここで神様はパウロの「願い」を叶えることはしていません。神様は人間の苦しみを放っておかれるお方なのでしょうか。違います。この神様の言葉を聞いて、パウロは続けて言います。「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。自分は自分の力だけで生きているのではない。神様の恵みによって生かされている。その素晴らしさに気付く、その大切さと喜びを語るのです。「自分」にこだわっている時、あれもこれもできないという、自分の「弱さ」ばかり気になってしまいます。しかし大切なことは、その自分の「弱さ」に対して、神様が、そして沢山の周りの人たちが、どれだけ多くの助けを与えてくれているか、その恵みに気付くことです。その時、私たちは自分の「弱さ」をも受け入れ、本当の意味で自分を誇って、生きることがでます。

遠州教会 牧師 石井佑二

10月

「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
ルカによる福音書 第10章20節

 ある日、イエス様によって任命され、あちこちの町や村に、神様の救いを宣べ伝えるようにと派遣された弟子たちが、その働きを終えてイエス様のもとに帰ってきました。皆、その働きが上手く行ったことを喜んで報告します。イエス様もその報告を大変お喜びになりました。しかしそれと同時に、イエス様は弟子たちに言うのです。「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。
 ここで言う大切なこと。それはイエス様から任命され、派遣された、その働きが上手くできたか、できかなかったか、ということではないのです。そうではなくて、どんな大きな働きをしようが、どんな小さな働きに終わろうが、あなたの働きは、あなたの「名」が、天の神様の御心の中に書き記され、神様によってしっかりと憶えられているということ、これが大切なのです。神様への祈りの中で、自分に与えられた使命、働きに生きる時、その働きの全てが神様に喜ばれ用いられると信じられる。家庭での働き。社会での働き。小さくても大きくても良い。あなたの人生の歩みの全てを、大切な、素晴らしい働きとして受け止めてくださる。そして神様は御心の実現のために、あなたの働きを喜んで用いてくださいます。そのことを信じる時、私たちの人生の働き、その歩みに、大きな力が与えられます。

遠州教会 牧師 石井佑二

9月

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
ヨハネによる福音書 第13章34節

 イエス様は私たちに、「互いに愛し合いなさい」と愛の勧めをお語りになられます。そしてイエス様はここで「わたしがあなたがたを愛したように」と言われるのです。このイエス様に私たちの愛の最初がある、と聖書は言います。聖書が語る愛。それはイエス様のお姿を見る時、知ることができます。それはどういうものなのでしょう。愛するとは相手の下に立って、その人を支える、ということです。そしてイエス様はいつも私たちの「下に」立って、私たちに仕えて下さります。聖書は、そのイエス様においてこそ、本当の愛があると言うのです。Understandという言葉があります。英語で「理解する」ということですが、これはUnder「下に」という言葉と「立つ」という言葉で出来ています。相手の下に立って、相手を支える愛の業。そこに相手を理解し合える道がある。イエス様は私たちに対してUnderstand「下に」「立つ」お方であって下さりました。私たちの心を真実に受け止め、私たちのことを理解して下さります。それが愛です。私たちはこのイエス様に受け入れられ、理解されている。そう語る聖書の言葉を信じる時、私たちは愛されている自分を知ります。そうして自分が愛されていると知った時、私たちもまた、他人を理解し、受け入れ、愛することができる人となれるのです。

遠州教会 牧師 石井佑二

8月

「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」
マタイによる福音書 第5章7節

 私たちは「憐れみ」という言葉を聴くと、「高い所に立って、不憫な者を見下して、施しを与える」というイメージを持つかもしれません。イエス様がここで言われるのは、もちろんそうではありません。この「憐れみ」という言葉は、新約聖書のもともとの言葉のギリシア語では、人間の「内臓」、「はらわた」を意味する言葉が使われています。つまりここで言うのは、何かの形で苦しさを味わっている人のことを思うと、自分の胃がきりきりと痛む。それ程に、その人の痛みを自分の痛みとして心を傾ける。それがイエス様によって聖書が語る「憐れみ」なのです。
 聖書は、あなたも他者に対して、この「憐れみ」に生きて欲しい、と言います。人の痛みを自分も負う。それは難しい事の様に思えます。しかし聖書は、あなたはその生き方ができる、と言います。なぜなら、既にあなたは、イエス様によって「憐れみ」をいただいているのだから、と言うのです。神の子イエス様が、高い所にいるどころか、そのお立場を捨てて、低きに降り、私たちと同じ人間となって下さった。そして私たちの救いのために、十字架に架かり、その命を捨てて下さったのです。これ程にあなたはイエス様の「憐れみ」をいただき、支えられている。このことを思い起こす時、私たちも他者への「憐れみ」に生きる、その力を得られるのです。

遠州教会 牧師 石井佑二

7月

「勇気を出しなさい。」
ヨハネによる福音書 第16章33節

 今月の聖句で、イエス様は言います。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。私たち一人ひとりには、その毎日の生活に「苦難がある」と言われます。それは、イエス様は沢山の重荷と苦しみを負いながら生きている私たちのことを、しっかりと見てくれている、ということです。しかしそれは、簡単には解決しない問題でもあります。その私たちに「勇気を出しなさい」と言われます。この言葉は「苦しさがあるだろうけれども、頑張りなさい」ということではありません。大切なことはその次の言葉です。イエス様は言われるのです。「わたしは既に世に勝っている」。「世」とは、私たちが生きているこの世界、その毎日のこと。そこで起こる様々な重荷と苦しみをご存じでいて下さりながら、その問題に勝つ、確かな解決の道を、イエス様はもう既に用意して下さっている、ということです。私たちは、自分一人で毎日の重荷を抱え、苦しんでいる、と思ってしまいます。でもその時に、心を柔らかくして、イエス様に祈りたい。そうすると、その問題に「既に勝っている」と言われる、イエス様の導きを新しく知ることが出来ます。救い主イエス様が、今、こんなにも心強い励ましを与えてくれている。この慰めを知る時、私たちは生きる
「勇気」を本当に得られるのです。

遠州教会 牧師 石井佑二

6月

「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。」
ルカによる福音書 第12章27節

 私たちは毎日の生活を生きる中で、沢山の「思い悩み」を抱えます。特に「理想の自分、輝かしい人生を生きる、そんな自分でありたい。けれども、自分には能力が無いから、そうは生きられない」。そんなことを考えてしまいます。そうして「もっとお金があれば」「もっと才能があれば」と、自分に足りないものを数え上げてしまいます。しかしそんな私たちに、イエス様は言われるのです。「思い悩むな」(22、29節)。あなたは、もうそんなことに思い悩まなくて良い。そう言いたくて、イエス様は冒頭の御言葉を語られます。「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい」。野の花は美しく咲きます。しかしその美しさは、野の花自身が思い悩んだから得られた美しさなのでしょうか。そうではありません。ただ、神様が装ってくださるから美しいのです(28節)。神様は、あなた自身で気付いていないとしても、あなたが本当に輝いて生きる為に必要なものが何であるのかということを、良くご存じでいてくださります。この神様に祈り、その導きに信頼してご覧なさい。そうすればもう、自分の足りないものを数え上げる「思い悩み」から、あなたは解放される。そして今、既にあなた自身に与えられている、輝かしい自分の素晴らしさに気付くことができますよ。イエス様は、野原の花を示しながら、そう言われるのです。 

遠州教会 牧師 石井佑二

5月

「安心して行きなさい」
マルコによる福音書 第5章34節

 救い主イエス様が、病に苦しむ人を癒しながら、神様を宣べ伝える旅をしておられます。ある村を通った時です。そこに12年間も出血が止まらない病気で苦しんでいる女性がいました。どんな治療も効果がなく、財産も使い果たしてしまいました。この女性は深い絶望の中にありました。何とか癒されたい。その願いを持って、イエス様に近づきます。イエス様を取り囲む群衆に紛れて、そっとイエス様の服に触れました。するとたちまち、その病気は治りました。その時にイエス様は、誰かがご自分に触れたことを感じ取り、一所懸命に、その人を群集の中から探し、見つけ出されました。
 なぜイエス様はそんなにまでして、その人を探し出されたのでしょう。それは、イエス様ご自身が、その人ときちんと向き合い、その人がこれからの日々を歩んで行くことができるようにと、本気で慰め、励ましたい、と願われたからです。イエス様は、苦しむ人を、本気で助けたい。真剣な心で、その人ときちんと出会い、これからもずっと支え続けたい、と願われるのです。だから、苦しみの中にある人との出会いを求めます。そしてその人に、真剣な愛の心を持って「安心して行きなさい」と言葉を掛けられる。その人を支え、新しい人生に送り出したい、と願われる。イエス様は私たち一人ひとりと、その様に出会いたい、と願っておられます。

遠州教会 牧師 石井佑二

4月

「光の子として歩みなさい」
エフェソの信徒への手紙 第5章8節

 「光の子として歩みなさい」。聖隷こども園ひかりの子の名前は、ここから来ています。私たちが一番大切にしている御言葉です。
 聖書は「光」のイメージを大切にしています。聖書の最初で、神様が世界を造られた時、混乱した世界において、神様は最初に「光あれ」と言われます。すると世界は光と闇が分けられ、無秩序の世界に秩序が生まれました。そこに新しい命が生れる、と聖書は言うのです。
 今日の世界、様々な混乱が続きます。命の営みが分からなくなるような世界です。しかし聖書は、その所で神様が「光あれ」と言われ、生きる道を見失っている人の、確かな人生の道を示す、と言うのです。
 聖隷こども園ひかりの子は、聖書の言葉に聞き、神様の「光」をいただきながら、毎日を歩みます。そして聖書は言います。その神様の「光」をいただいた人は、今度はその人自身が、周りにいる、困難を抱えて、心が真っ暗になってしまっている人を助ける者となれる。自分だけではなくて、周りの人も一緒に明るく照らし出す、新しい「光」となれる。そういう者に成長できる。子どもも、周りにいる大人も、皆、「光」となって、互いに互いを助け合う者へと成長できる。神様によって、その様に私たちの人生が守られ、導かれている。この聖書の言葉に励まされながら、共に歩みたいと願います

遠州教会 牧師 石井佑二