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2020年度

3月

「光の子として歩みなさい。」
エフェソの信徒への手紙 第5章8節

 「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」。皆さんはこの聖隷こども園「ひかりの子」での日々を過ごし、沢山のことを経験しました。上手く行ったこと、失敗したこと、嬉しかったこと、悲しかったこと。その全てにおいて、聖書の神様のお護りと導きがありました。神様はいつも皆さんに言っておられます。「あなたがたは、……光となっています」。光は、周囲が暗闇に包まれても、その暗闇を打ち破り、周囲を明るく照らし出します。神様は、「私の護りの中で生きる、あなたがたは『光』そのものなのだ」と言われるのです。あなたがたの近くに、暗闇で心が押し潰されてしまっている人がいるなら、その人の為に、新しく生きる道を照らし出すことができる「光」。神様は「あなたがたはこの『光』の力を得た人だ」と言われるのです。これから先の人生、「暗闇」とぶつかる時があるでしょう。また、自分の愛する人が「暗闇」の中に落ち込むこともあるでしょう。しかし「ひかりの子」において、神様のお護りと導きがあると知った皆さんは、「光」となっているのです。世の暗闇に負けない力、暗闇に落ち込んだ人を助けられる力が与えられているのです。「光の子として歩みなさい」。「ひかりの子」の日々を一緒に歩む皆で、この神様の御言葉を心に刻みたいと思います。

遠州教会 牧師 石井佑二

2月

「愛は、すべてを完成させるきずなです。」
コロサイの信徒への手紙 第3章14節

 「あなたがたは……憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても赦し合いなさい」(コロサイ3・12~13)と言います。これ程に他者を大切にできることは素晴らしいことです。しかしその様に努力しても、私たちはちょっと嫌なことがあれば途端に、この憐れみ、柔和さ、赦し、それらの心を失ってしまいます。本当の意味でこれらを身に付けるにはどうすれば良いのでしょうか。聖書は教えてくれます。「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい」(3・14)。そう言って、冒頭の聖句「愛は、すべてを完成させるきずなです」と言います。この言葉はもともとの言葉からは「愛は、完全な結びの帯です」と訳せます。ここで言う愛は、私たちの力ではありません。神様が私たちを愛して下さった、神様の愛です。「愛を身に着けなさい」と言うことで聖書が求めているのは、「あなたは神さまに愛されている」ことを信じ受け入れて欲しい、ということです。その時、あなたが受け入れた、あなたの内におられる、愛である神様が、あなたと、あなたが身に着けるべき憐れみ、柔和さ、赦しの心とを、確かに結びつけて下さる。そう言っているのです。「愛されている自分」ということを知った人は、本当の意味で他者を大切にすることが出来る、新しい自分として生きられます。

遠州教会 牧師 石井佑二

1月

「神は愛です」
ヨハネの手紙一 第4章16節

 私たちはいつも、他者との愛のつながりを大切にしたいと願っています。家族、友人、職場の仲間が助けを必要とする時、いつでも手を差し伸べることができる。そんな愛のつながりを持って生きていたいと願っています。しかし実際のところはどうなのでしょう。自分の人生を振り返れば、「できることはやって来た」と言えるかもしれない。しかしそれが本当に、何の打算もない、確かな愛だったか、と問われれば、自信を無くしてしまいます。いったい愛の確かさとは何なのでしょう。
 聖書は言います。「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(ヨハネ一4・16)。ここでの「とどまる」とは「つながる」と同じ意味です。神様は、私たち全ての人を愛して下さります。この神様との愛のつながりは確実で、揺らがない。そして聖書は、この神様の愛をいただいている全ての人同士もまた、その神様の愛によって、お互いにつながり合える、愛し合える、と言うのです。
 人同士の愛のつながりが見えにくい時代です。でも神様がつなげて下さる愛が、私たちには確かに与えられています。ここに愛の確かさがあります。2021年の始まり。この愛の言葉から新しい歩みを始める力を得たいと願います。

遠州教会 牧師 石井佑二

12月

「光は暗闇の中で輝いている」
ヨハネによる福音書 第1章5節

 2020年という年。世界中の人々が感染症の痛みを負い続けています。また世界の人間同士の分裂も深まってしまったように見えてしまいます。世界が「暗闇」に包まれている。そんなことを考える一年でした。
 2000年前。キリスト教会に生きた人々は、ローマ帝国によって厳しい迫害を受けていました。多くの仲間たちが殺され、明日には自分も死んでしまうのではないか。そういう苦しい、暗闇の時代の中にありました。しかしその所で教会は、神様に導かれて、聖書にこう書き記しました。「光は暗闇の中で輝いている」。
 聖書において「暗闇」と言う時、それは自分の周りの苦しい状況のことだけを言うのではありません。その苦しい状況によって、もう周りが見えなくなってしまい、一歩も進めなくなってしまう、そういう私たち自身の絶望の心のことをも「暗闇」と言うのです。絶望してしまう。心が死んでしまう。しかし聖書は、そのあなたの心に、暗闇を打ち破る、死に打ち勝つ、光のイエス様がいてくださり、暗闇に勝つ力を私たちに与えてくれる、と言うのです。「光は暗闇の中で輝いている」。苦しい、絶望、その暗闇の心の中に、光として、私たちの進むべき命の道を照らしてくれるイエス様が共にいて下さる。暗闇が深まる時にこそ、光は強く輝き出る。その事を思い、クリスマスの時を迎えましょう。

遠州教会 牧師 石井佑二

11月

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」
ヨハネによる福音書 第15章12節

 神様の独り子、救い主イエス様が「互いに愛し合いなさい」と、私たちに言われます。「愛する」という時、一切見返りを求めることはありません。この御言葉が言う「互いに」とは、いわゆる「お互い様」という事で考えてしまう「愛したのだから、あなたも私を愛しなさい」ということとは違うのです。そうではなくて、見返りを求めず、ただ相手に愛を与えること。その思いを、皆、互いに持っていて欲しい、と言われるのです。
 しかしその様に、見返りを求めず人を愛するということに、私たちは難しさを感じてしまいます。愛することに生きるには、大きなエネルギーが必要です。そのエネルギーとは「自分は愛されている」という、愛の経験を知る事によってこそ得られるものです。そこでイエス様がこう言っておられることを私たちは聞きます。「わたしがあなたがたを愛した」。「あなたがこの世を生きられるなら、私は命も、持っているもの全てを捨てても構わない」。イエス様はそう思って、私たちが罪によって滅んでしまう、その身代わりとなって十字架に架かって死んで下さりました。「この愛に、あなたも生きて欲しい」と言われるのです。私たちに、生きていて欲しいと望むお方の愛が、今、私たちを包んでいる。このいただいている大きな愛を知る時、私たちは、互いに愛に生きられるのです。       

遠州教会 牧師 石井佑二

10月

「いかに楽しいことでしょう/主に感謝をささげることは」
詩編 第92編2節

 この詩編を記した詩人は、神様を礼拝し、感謝をささげる事に大きな喜びを見出しています。そして周りの人たちにも「一緒に神様を礼拝する喜びを知りましょう」と誘っているのです。しかしどうして神様を礼拝することがそんなに楽しい、と言うことができるのでしょう。この「楽しい」という言葉は、旧約聖書のもともとの言葉のヘブライ語では「良い」という意味でもあります。ここでは人間が神様を讃美することが「楽しい」「良い」という事ですが、聖書の別の所で、神様が人間の事を「良い」と言って下さっている箇所があります。それは聖書の最初、創世記第1章。神様が世界をお造りになり、その創造の業の最後に、お造りなられた全てのもの、そして特に人間を見た時です。神様はこう思われた、と聖書は言うのです。「見よ、それは極めて良かった」(創世記1・31)。神様がこの世界を、そして人間を見て「極めて良かった」と言って下さる。この神様と同じ思いを、人間は神様を礼拝する時に持つ事が出来るのです。
 私たちは神様から「極めて良い」と断言されています。詩編の詩人は神様を礼拝することで、そのことを知らされているのです。だから自分が自分として生きることが「楽しい」。この生きる喜びを、多くの人に知ってもらいたい。そう願っているのです。

遠州教会 牧師 石井佑二

9月

「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」
ヨハネによる福音書 第15章15節

 「友」の英語“friend”は、「自由」“free”が元となっている言葉です。それはこういう事です。私たちは誰かと友達になる時、他の人に強制されて友達になる、ということはあり得ません。出会った切っ掛けは色々あるかもしれませんけれども、一緒にいると嬉しいから、自分の自由(free)な心で、喜んで、その人と一緒にいたいと思える人、それが友達(friend)だ、ということです。
 イエス様は私たちに言われます。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。……わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(ヨハネ15・15)。それはイエス様が私たちと一緒にいる事に、大きな喜びを感じて下さるという事です。イエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)と言って下さいます。私たちという存在は、イエス様に喜びを与えることができる、イエス様の大切な友なのです。
 現代に生きる私たちにとって「自分とは何者だろうか」という問いは、人生に意味を与える大切な問いとなっています。何者として生きて行けば良いのか分からず、生きる喜びが分からない、という事に苦しみます。しかし聖書は言います。あなたはイエス様の友、イエス様の喜びの存在である、と。自分が誰かに喜びを与えられる存在だと知る時、私たちは生きる喜びを知る事が出来ます。              

遠州教会 牧師 石井佑二

8月

「主はすぐ近くにおられます」
フィリピの信徒への手紙 第4章5節

 フィリピの信徒への手紙第4章5節「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」。これはイエス様の弟子であるパウロが、フィリピという所にある教会に語った言葉です。フィリピの教会の人たちは、神様の喜んで下さる「広い心」、愛の心、優しい心を持って生きていたいと願いました。しかし実際の人間関係で、辛い事、難しい事があると、心が狭くなり優しくできない。その事に悩んだのです。その悩みに対してパウロが語ります。「主はすぐ近くにおられます」。主とは救い主イエス様の事。神様は、私たちの罪が赦されるために、愛する独り子イエス様を私たちに捧げ、身代わりとして十字架の死に導かれました。それ程の愛をあなたがたはいただいている。そしてイエス様は死から甦られ、目には見えないけれども「あなたがたと共にいる」と約束して下さりました。それはこのイエス様を通して、神様の愛が今もあなたがたに与えられ続けている、という事でもあります。このイエス様の近さを思う時、神様の愛を知る事ができる。この神様の愛に応えて、あなたがたも「広い心」を持つ事ができる、と言うのです。これは今、苦しい時の中にあって、「広い心」、愛の心、優しい心を忘れてしまいそうにある私たちにも言われている、慰めの言葉です。

遠州教会 牧師 石井佑二

7月

「今日を喜び祝い、喜び躍ろう」  詩編 第118編24節

 皆さんは朝、目を覚まして「あぁ、今日一日のことを考えると憂鬱だなぁ」と考えてしまったことは無いでしょうか。辛い事、難しい事を抱えていると、そう考えてしまうことも有ると思います。詩編第118編の詩を歌った詩人も、そういう中にありました。詩人は「今日を喜び祝い、喜び躍ろう」と言います。しかしその「今日」とは、詩編118編の全体を見ると、敵対する人たちに取り囲まれ、攻撃を受け、毎日を生きる気力が失われている、とっても苦しい「今日」だということが分かります。詩人はそのことを訴えながら、しかし「自分のことを神様が守ってくれている」ということへの信頼を語り、何度も、神様の「慈しみはとこしえに」(1~4節、29節)と歌うのです。そして「祝福あれ、主の御名によって来る人に」と言います(26節)。それは将来、今のこの苦しい時をも、必ず良いものとして、生かし、用いてくれる主なる神様がおられると信じる、と言っているのです。詩人の「今日」は苦しい。でもこの苦しみも、将来、必ず意味を持って、良きものとして、神様に用いられる。そう信じて、「今日」を生きる。「今日を喜び祝い、喜び踊ろう」。救いを与えてくれる神様を信じる時、私たちは苦しさがある「今日」を、それでも希望を持って、喜びの中で生きて行けるのです。 
         
遠州教会 牧師 石井佑二

6月

「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのです」
ペトロの手紙一 第4章10節
 ペトロの手紙一第4章10節の御言葉。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」。「賜物」、それは神様からプレゼントして頂いた特別な力や才能、ということを意味しますが、もっと広く、今与えられている自分の性格や生活の状況、自分の全てを「賜物」として受け取るべきものだ、と言うこともできます。
 プレゼントを受け取る時、大切なのは、それを送ってくれた人の心を、きちんと受け取ることです。私たちが誰かにプレゼントをあげる時、真剣に相手のことを考えて、「この人の人生が豊かになったら嬉しいな」と思えるものを選びます。神様は、何を思って私たちそれぞれに、人生の「賜物」を与えて下さったのでしょう。それは「その賜物を生かして互いに仕えなさい」ということです。あなたがたの力や才能、生きている在り方、その全てを、自分のためでなく、お互いに周りの人を生かすものとして用いて欲しいと、神様は願っておられるのです。「賜物」は自分の為ではなく、人に仕える為に用いてこそ、自分の人生を豊かにします。そうして、あなたがたが周りの人と一緒に、幸せに生きて欲しい。そこにこそ「賜物」をプレゼントしてくれた、神様の御心があるのです。

遠州教会 牧師 石井佑二

5月

「あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」
イザヤ書 第43章1節
 聖書は、神様によって人間は造られた、という信仰の物語を語ります。「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1・27)。また神様は自分以外のもの、他者を愛することを最も素晴らしい事であると、私たちに教えて下さります。神様ご自身が、溢れる程の愛を持って、他者である人間、つまりは私たちを、命あるものとして造り、この世に生きるものとして下さったのです。
 今月の聖句で、神様が私たちに「あなたはわたしのもの」と言われます。それは「私とあなたはいつも愛のつながりの中にある。私はいつでも、最初から最後まで、あなたを愛し、守り続ける」という、神様の愛の決意を語っておられるのです。その神様が「わたしはあなたの名を呼ぶ」と言われます。私たちは自分の「名前」を持って人生を歩んでいます。この名前で、私たちは周りの人たちと関りながら、人生を生きます。「名前」を持って生きるとは「私が私らしく生きる」ことを喜べる、そのしるしだ、とも言えるのです。そのあなたの「名を呼ぶ」と、神様は言われます。神様は私たちにこう言って下さっているのです。「私はあなたを愛している。あなたがあなたらしく、この世を生きている事。それが掛け替えのない私の喜びだ」。今月の聖句はその神様の御心を言い表すのです。            

遠州教会 牧師 石井佑二

4月

「光の子として歩みなさい」
エフェソの信徒への手紙 第5章8節
 「光の子として歩みなさい」。聖隷こども園ひかりの子が最も大切にしている聖句です。聖書は「光」を語ります。この世の暗さや、生きていて心が暗く沈み込んでしまう苦しさがある。にもかかわらず、暗闇の中にあって「光」は、暗闇に支配されずに、明るく輝くことが出来る。聖書はそこに神様の救いを重ねて見るのです。
 ヨハネによる福音書の中で、「光は暗闇の中で輝いている」と言います。「光」を救い主イエス様と重ねて言います。イエス様は、暗闇など全く無い天の国におられました。しかし暗闇の中で苦しむ私たちを助けるために、天の国を捨てて、私たちの所に来てくれたのです。「光」はどこにあるのか。救い主はどこにいるのか。この世は真っ暗だ、としか思えない様なこの世の悲惨があります。しかし「光」であるイエス様は、その暗闇の中にいる私たちの所に飛び込んで来てくれて、「必ずあなたを助ける」と語ってくれるのです。「光は暗闇の中で輝いている」。
 子どもたち一人ひとりに、神様が「光の子として歩みなさい」と言って下さっておられます。子どもたち自身が光の明るさを身に着け、家族や周りの人々を明るく照らすことが出来る力が与えられる。その事を私たちはいつでも信じます。皆様の新年度の歩み出しに、神様の祝福がありますように。

遠州教会 牧師 石井佑二