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ホーム  > 園長コラム  > 「親として今この子にできることは」

「親として今この子にできることは」

ここにあげた『今日』という詩は古くからニュージーランド伝わる英語の詩を日本語訳にしたものです。
世界中の子育てしている母親は誰しもがこんな思いをしながら子育てをしているようです。
私は子育てに専念していたわけではありませんから、その日やらなくてはならない家事や仕事をまず優先し、子どもとの関わりはその次だったように思います。ですからこうした思いは少なかったかも知れません。
子どもは実家の母親や保育園に預け、任せていました。
熱のあるわが子を母親に預けた時、母はいつも私にこう言いました。「あなたね、いつもいつも仕事でこの子といっしょにいられないのに、せめて熱がある時ぐらいそばにいてあげられないの」と。また会議で夜遅くなると「子どもは、昼間は親のことを忘れて私と、機嫌よく過ごしても、夕方暗くなると、玄関と部屋を行ったりきたりして、親が帰ってくるのを待っているのよ、もっと早く帰れないの」とも。
私は当時、そう言われると、「休めるものなら休みたいけれど、休めないからお願いします」と言いながら、子どもは母に任せておけば安心とばかりに、いつも母に甘えていたように思います。
家事や仕事は「出来た」、「出来なかった」と結果が見えますが、『今日』の詩にあるような子どもとの関わりは見えにくく、そのことは誰も認めてくれません。結果は何年、何十年後と子どもが大きくならないと分からないのです。子どもは今を生き、成長しています。親として今、この子にできることは・・・・・(母のことばが今、改めて思い出されます)


『今日』 (伊藤比呂美 訳) <福音館>
今日、わたしはお皿を洗わなかった  ベッドはぐちゃぐちゃ
浸けといたおむつは だんだんくさくなってきた
きのうこぼした食べかすが、床の上からわたしを見ている
窓ガラスはよごれすぎてアートみたい
雨が降るまでこのままだとおもう

人に見られたら なんていわれるか
ひどいねえとか、だらしないとか 今日一日、何をしてたの? とか

わたしは、この子が眠るまで、おっぱいをやっていた
わたしは、この子が泣きやむまで、ずっとだっこしていた
わたしは、この子とかくれんぼした。
わたしは、この子のためにおもちゃを鳴らした、
それはきゅうっと鳴った
わたしは、ぶらんこをゆすり、歌をうたった
わたしは、この子に、していいこととわるいことを、教えた

ほんとにいったい一日何をしていたのかな
たいしたことはしなかったね、たぶん、それはほんと
でもこう考えれば、いいんじゃない?

今日一日、わたしは
澄んだ目をした、髪のふわふわな、この子のために
すごく大切なことをしていたんだって

そしてもし、そっちのほうがほんとなら、
わたしはちゃーんとやったわけだ