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「自己肯定感は隣人愛の第一歩」

昨年末から「あおり運転」に対しての裁判が何回か報道されました。皆さんもご存知とは思いますが、2017年6月に起こった東名でのあおり運転での裁判で、両親を亡くされ、同乗していたお子さんの証言がとても印象的で考えさせられました。
この裁判での争点は、直接ぶつかったのは第三者のトラックでしたが両親が死亡したことは、あおり運転になるか、ならないかの争いだったように思います。(判決はあおり運転と判断されて実刑判決がだされました)
 そのお子さんの証言では「二度と両親に会えないことはすごく悲しい。私はミッション系の学校に通っているので、このような人も許す心を持つことを教えられていますが、今はとてもそのような気持ちにはなれない、こうしたことが起こらないように犯人には重い刑罰にしてほしい」と語った。と報道されていました。
 このお子さんの証言が、キリスト教の『愛』についての学校で学んでいることが、「言葉で分かっていても実際その環境におかれた時の気持ちは、確かにそう思って当たり前だろうな。どんなに憎んでも憎みきれない感情があるのは当然であり、許すことは到底できないないだろう」と思いながらも、キリスト教の『愛』って何だろうと改めて考えてしまいました。
 聖隷も「隣人愛」のキリスト教精神に基づいて多くの事業を展開しています。しかしこの「隣人愛」の言葉だけの理解で、分かったようになってはいないでしょうか?
 聖隷の保育事業も「愛されて愛する心を知り、お互いが大切な存在であることを知る」と保育教育理念の一つになっています。では子どもたちが具体的に愛されていると感じているような保育が私たちはできているでしょうか、「自分は愛されて大切にされている」と感じた時に、はじめて自己を肯定する感情が芽生え、それを育むことで大げさかもしれませんが、その子のその後の生き方が決まってくるようにも思います。
親や保育者が愛しているつもりであっても、子どもに対して、求めることが高かったり、多かったりすると子どもは『求めに応じなければならない』で、自分の目標が現実の自分とかけ離れていることに、頑張ってもできなければ『やはり自分はだめなんだ』と自己肯定とは逆の自己否定の感情が大きくなっていくのです。 それがやがて他者否定となって親子関係を始めとして多くの人間関係をネガティブな方向にしてしまっていると、ひきこもりでの研修でもありました。
『隣人愛』はまず自己肯定ができなかったら、「キリストの愛」は理解できないのかもしれません。
どんな自分でも『それでいいんだよ。私の大切なこどもよ』といつもそばで見ていてくれる人がいれば、自己肯定の中で生きていくことができます。それが『隣人愛』を伝えていく第一歩であるようにも思いました。
先のような証言をしたお子さんも自己肯定しながら、キリストの愛に近づいていくことを祈りながら、私も今生きている自分を改めて見つめ直し、キリストの愛に少しでも近づけたらと思いました。