「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」 ~ルカによる福音書 2章11節~
アドベントの期間に入り、子どもたちはクリスマスを楽しみに待っていることでしょう。
聖書にあるクリスマスの物語を読んでいくと、どういうわけか読む人が自分自身の原点に帰らされる思いがします。もしかしたらそれはマリアとヨセフが「それぞれ自分の生まれた町」であるベツレヘムに出掛けたからかもしれません。またその町で天使が知らせてくれたとおり赤ちゃんが生まれたという姿を見るからかもしれません。
自分の原点に帰るということは、皆さんの人生が、皆さんの命がどこから始まっているのか?という問いかけとして受け止めることが出来るでしょう。この問いかけに対して聖書が答えているのは「愛」です。そこには親の愛もあります。そして神の愛もあります。私たち一人一人の人生は「愛」から始まっているのです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2022年5月9日
- 2022年 5月 聖句
- 保護者の皆さんが今子どもさんを預けている園を選ばれた理由は何でしょうか。色々な事が挙げられます。保育内容、立地条件、あるいは口コミを頼りにされたところもあるかもしれません。とにかく、子どもさんの育ちにプラスになることを考えて選んでおられるに違いありません。何故そうするのでしょう。それは子どもたちは自分だけではどの園が良いのかを選ぶことは難しいからです。保護者の皆さんは子どもたちの代わりに、子どもたちが幸せに毎日を過ごせる園を選んでおられるわけです。
聖隷福祉事業団の保育園・こども園はキリスト教保育をしています。ここに立って園として子どもたちが毎日を幸せに過ごす為に大切なことを実践しているわけです。子どもたちにとっては家庭でも愛され、園でも愛されることが一番大切です。何故、愛なのか。このことをイエス様が私たちを愛して下さる事実を通して、人間にとって愛がどんなものかを私たちに教えて下さっていると私たちは信じているからです。だから、イエス様は「わたしのところに来させなさい」とおっしゃっているのです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2022年4月1日
- 2022年 4月の聖句
- 新年度・新入園などの季節を迎えました。この季節は特別なことがなくても嬉しさを感じることの多い時期です。同時に保護者の皆さんにとっては子どもたちやご自身が新しい環境での生活に入っていくという意味では慌ただしかったり、多少の不安がある時かもしれませんね。
教会では今イエス・キリストの生涯を覚える期間となっています。とりわけ、イエス様が悩まれ、苦しまれた時のことをおぼえています。何故そんなことをするのか。イエス様は私たちを愛しておられるからこそ、悩んでくださったし、苦しんでくださったのです。
先日保育園・こども園職員対象の年度末研修会に出席して、「共感」が保育の中で大切だと学びました。そして共感してくれる相手を子どもは信頼するものだと。つまり、私たちの思いを分かってくれる人、受け留めてくれる人こそ信じるに値する者である、ということでしょう。
そうは言いながらも、他人の気持ちを分かり、受け留めることほど難しいことはありません。イエス様はこの難しいことしてくださいました。その為に、苦しみと悩みを負うことを厭われなかったのです。 愛することと苦しみ・悩みとは深く結びついているのです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2022年3月1日
- 2022年 3月の聖句
- 2021年度最後のひと月を迎えました。保護者の皆さんも年度の区切りを迎えて慌ただしくも、一年間のお子さんの成長の姿を振り返られる時もあろうかと思います。
この一年間、子どもたちも保護者の皆さんも色々な体験をしてこられたことでしょう。思い起こしてみると悲喜こもごもであろうと思います。新型コロナウィルス感染への対応では親子ともども大変な面があったかと思います。そうした様々な時を一緒に過ごして来られたことそのものがとても大切なものであると私は考えます。良し悪しは別としてもそのお蔭で親子一緒に過ごす機会も多くなったでしょうし、多くなった分嬉しい発見もあったでしょうし、辛く感じられたこともあったでしょう。そうした様々な体験を味わいつつ成長してきた一年間は貴重です。なぜなら「一緒である」ことは愛することの始まりだからです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2022年2月1日
- 2022年2月の聖句
- 今月のテーマは「あいさつ」です。保護者の皆さんも色々な場面で挨拶をされることがあるでしょう。私自身子どもの頃に周りの人からあいさつを心がけるように言われてきた覚えがあります。あいさつの大切さは何でしょうか。私なりに考えてみました。あいさつは、他の人との関わりを作るためのきっかけになります。あいさつからは「わたしはあなたに関心を払っています。わたしはあなたと関わりたいです。」こんなメッセージが発信されると考えられます。
人は誰でも自分に関心を払ってくれる人のことをいい加減に扱うことが出来ません。そして周りの人から自分がいい加減に扱われることも望んではいません。だから、あいさつすることは「他人からしてもらいたいことを、まずは他人にしている」ことだと言えます。
保護者の皆さんのご家庭で親子でのあいさつをしておられるでしょう。これは小さなことかもしれませんが、家庭の中でお互いを一人の人間として認め合っている印なのです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2022年1月7日
- 2022年1月の聖句
- 新年をどのようにお迎えでしょうか。今年の冬は例年よりも寒さが厳しい天候ですね。そんな中で窓ガラス越しの日の光の温かさが有難く感じられます。今月は「元気」がテーマです。私が子どもの頃は「子どもは風の子」と言われて真冬でも外で遊ぶのが当たり前でした。今はあまりそういう姿を見かけなくなっています。とは言え、園庭では子どもたちが過ごしている姿を見ることが出来、やはり子どもたちは元気だなと思わされます。子どもたちのあの元気はどこから来るのでしょう。
寒さの中では私たちはどうしても縮こまりがちです。そんな中でも温かさを身に受ける時があるとのびのびとしますし、なんだかやる気も出てきます。これは身体だけに限った話ではないように思います。身体と共に心にも温かさを感じられると元気づくように思います。その多くは家庭や園での人間関係だと言ってもよいでしょう。温かさは、身近な人とのつながりの中で「私は受け入れられている」「私の事を分かってくれている」という体験をすることです。ですから、皆さんを受け入れているイエス様がおっしゃっています。「子よ、元気を出しなさい。」
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2021年12月7日
- 2021年12月の聖句
- アドベントの期間に入り、子どもたちはクリスマスを楽しみに待っていることでしょう。
聖書にあるクリスマスの物語を読んでいくと、どういうわけか読む人が自分自身の原点に帰らされる思いがします。もしかしたらそれはマリアとヨセフが「それぞれ自分の生まれた町」であるベツレヘムに出掛けたからかもしれません。またその町で天使が知らせてくれたとおり赤ちゃんが生まれたという姿を見るからかもしれません。
自分の原点に帰るということは、皆さんの人生が、皆さんの命がどこから始まっているのか?という問いかけとして受け止めることが出来るでしょう。この問いかけに対して聖書が答えているのは「愛」です。そこには親の愛もあります。そして神の愛もあります。私たち一人一人の人生は「愛」から始まっているのです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2021年11月1日
- 2021年11月の聖句
- 子育てに関わることわざの1つに「這えば立て、立てば歩けの親心」というものがあります。人の子の親は子どもに期待を寄せるものだ、というのがそもそもの意味です。保護者の皆さんも子どもに対する、子育てに対する期待というものを持っておられることでしょう。これが励みになることもあります。同時に、その期待があるためにことわざで言われるように「次の段階へ、次の段階へ」と急き立ててしまうことも起こります。
「私の恵みはあなたに十分である。」この言葉は「今、そこにあるそのままの『あなた』の姿が十分なものですよ」というメッセージを持っています。大人は子どもよりも先の見通しが立つものですから、どうしても子どもの姿から「その先」を見てしまいがちです。でも、「今そこにある」子どもの姿を認めて受け入れていくところからこそ「その先」が開かれていくように思うのです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2021年10月1日
- 2021年10月の聖句
- 今回は「ともだちひきとりや」という絵本を紹介します。イノシシとイタチはとても仲良しでした。ただ、イノシシが威張りすぎるのがちょっぴり残念。ちょっとしたことをきっかけに仲が悪くなってしまいます。そこでキツネとオオカミが「ともだちひきとりや」に扮して登場。イノシシは早速イタチを引き取ってもらいます。気が付くとイノシシは一人ぼっち、向こうの方ではキツネとオオカミとイタチが仲良く遊んでいます。一人に耐えきれなくなったイノシシはもう一度「ともだちひきとりや」を呼んで、今度はイノシシ(つまり自分)を引き取ってもらう。こんなお話です。
私たち一人一人が「そこにいる」ということがどれだけ大切で、なくてはならないものであるか、ということに気付かされる絵本です。保護者の皆さんも忙しい毎日ですが、家庭の中で一人一人がそこにいるという当たり前な事の素晴らしさを味わって下さると、その度に皆さんの毎日は幸せなものになると思います。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2021年9月1日
- 2021年 9月の聖句
- 教会での結婚式では結婚する二人が誓いをする場面があります。「私は健やかな時も、病む時もこの人を愛することを誓います。」保護者の皆さんも既に味わっていることですけれど、結婚生活・家庭生活は健やかで平らな道を歩く時ばかりではなく、険しい坂を登っていくような苦しみ、谷を下るような不安も起こります。そうした中で夫婦もお互いに振る舞いが変わったり、言葉遣いが変わったりということが起こります。私たちを取り巻く事情が移り変わっていくように、皆さん自身も変わっているのです。そして子どもたちも。
その一方でいつも変わらないものがあります。それは私たちがそれぞれに「自分らしく生きていきたい」と思っている事です。言い換えると「愛されたい」です。「愛」は自分で自分に与えることは出来ませんけれど、他の人に与えることは出来ます。誰かが「その人らしく生きるため」の応援であれば、私たちにも十分出来るという不思議なものです。
今私たちはとても窮屈な毎日を過ごしています。その毎日の中でイエス様は私たちを愛して下さっています。だからこそ、私たちも互いに愛し合うようにと導かれているのです。
- 2021年8月1日
- 2021年 8月の聖句
- 今月15日は終戦記念日、太平洋戦争が終わったことを記念する日です。76年前のことになります。私自身もそうですが、直接その頃のことを体験した人も少なくなってきています。昔起こった悲惨なことを忘れてはいけないという声も聞きます。その一方で「昔とは事情が変わったから、昔のことにばかりこだわっているわけにはいかない」という声もあります。どちらの立場であっても、ひとたび戦いが起これば必ず傷つく人、命を失う人が出ることが分かっているので、何とかしてそれを避けたいと考えています。そしてもしものことがあれば、傷つき、失われる命の周りには家族がいて、悲しみや苦しみ、憎しみの輪が広がって行きます。
「もしもこういうことが自分の身に起こったら、、、」「同じことが他の人にも起こったら、、、」こうしたことを思い測ることが出来る人が「憐み深い人」です。そしてこれが出来る人は幸せだとイエス様は私たちに約束しておられます。
- 2021年7月1日
- 2021年 7月聖句
- 保護者の皆さんは最近勇気を出したことがありますか。もしもあるとしたら、どのような場面でしょうか。改めて考えてみると子育てというものはとても勇気の要ることです。というのは一つの、あるいは2、3、4つの命を育てていくために、前もってどのような結果が出て来るのか分からない中で決心しなければならないこと、幾つかの選択肢の中で1つを選ばなければならないこと、こういうことが次々と起こって来るからです。少し極端な言い方をしますけれど、子どもを産むか産まないか、こういうことから始まって、生まれてきた子どものために何を、どのようにするか、既に保護者の皆さんはこういうことを沢山やってきました。
何かを決めたり、選んだりする時に身近な人からの助言があったりもします。ネットや本などから情報を手に入れることもあるでしょう。それでも最後は親である皆さんが決心したり、選んだりしなければ事柄が前に進まなかったはずです。
子育ては勇気が要ることです。だからこそ、皆さんのそば近くにいて皆さんを支えてくれる人が必要です。それが、イエス・キリストです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2021年6月1日
- 2021年 6月の聖句
- 今年は随分早く梅雨の時期に入りました。身の回りの草花を見ると春先に元気だったものと入れ替わるように今はアジサイが育ってきて花を咲かせています。
私が住んでいる教会の隣には国分寺公園があります。そこでもあちこちにアジサイの花が見られます。特に誰かがお世話をしているわけでもありません。でも毎年必ず梅雨の時期になるとちゃんと花を咲かせています。アジサイには申し訳ないのですが、私がアジサイを見るのは梅雨の時期だけで、それ以外ははっきり言って見向きもしません。でも、ダメになったりせず、育っています。どうやって育っているのだろうと、改めて思わされます。
子どもたちは身の回りで見られる生き物や植物に目をやったり、手で触れたりしています。そういう時はきっと「これなんだろう」とか「葉っぱは、触るとこんな感じがするんだ」とか色々なことを思っているのではないでしょうか。そんな子どもたちの姿が見える時には保護者の皆さんにも一緒に「なんだろうね」「どうしてかな」「なんでかな」と考えて下さるとよいと思います。子どもたちと心が通じ合うからです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2021年5月7日
- 2021年 5月の聖句
- 「安心」が今回のテーマです。安心というのは読んで字のごとく、「心が安んじている」ということです。新年度が始まったばかりのころはどうしても落ち着かない気持ちになりやすいものですが、そこからだんだんと子どもたちの様子も落ち着いてくるのが今の時期です。どうしてそのようになるのか。子どもたちが「心安んじている」ようになるからでしょう。どこでそのような心持になるのか。自分のクラスの先生とのつながりが出来てくるからでしょう。「先生はいつもわたしの事を見ていてくれる。」「先生は私のことを分かってくれている」ことが子どもたちの中で確かなものになるにつれて「安心」が増えてきます。
友だち同士の関わりでもそのようなことが生まれてきます。
その1つの現われは子どもたちと周りの人との間で「目が合う」ということだと思います。年度末の井桁先生の講演の中にもありました。人間は目と目を合わせるコミュニケーションをするように体の仕組みが出来ている、と。
今月の聖句では病気の女性とイエス様との出会いが描かれます。そこでイエス様は女性と目を合わせて語り、「私はあなたを見ているよ」と伝えておられます。だから「安心していきなさい」とおっしゃいました。今月も沢山子どもたちと目を合わせて頂けると子どもたちは安心して毎日が過ごせるようになります。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2021年4月8日
- 2021年 4月の聖句
- 4月1日は園生活の新しいスタートを切る日、新年度の始まりの日です。新しい先生や友だちとの「出会いの時」ですね。「出会い」と言えば、聖書には次のような話があります。
十字架に付けられて死なれたイエス様はお墓に納められました。そこに出かけて行った女性たちが見たのは空っぽのイエス様のお墓でした。代わりに天使がそこにおり、女性たちに言いました。「イエス様は復活なさったので、ここにはいません。あなたたちより先にガリラヤで待っています。」そこで女性たちがガリラヤへ向かうと、道の途中でイエス様が待っていて下さいました。女性たちはとても喜びました。イースターの出来事の1つです。
イースターはとても悲しい出来事の後に、思いがけず嬉しい出会いが起こる事を私たちに伝えています。今年度も悲喜こもごも様々な出来事から嬉しい出会いや素晴らしい出来事が皆さん一人一人のところに起こることを聖書は約束しています。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2021年3月3日
- 2021年「3月の聖句」
- 新型コロナウイルス感染が日本国内で見つかって一年余りになります。保護者の皆さんはこの一年以前と後とでは生活の仕方が随分変わったのではないかと思います。また、もしかしたらものの考え方も変わっているかもしれません。
ふりかえってみると、この病気の感染拡大が始まったばかりの頃、私たちの思いは「この病気に罹らないように」と自分や自分の家族に感染が起こらないようにするのに必死だったように思います。それからしばらくして新型コロナウイルスの感染の仕方が明らかになってくるにつれ、「自分が感染しないように」だけでは感染拡大は防げず、「自分がウィルスを広げないように」気を付けることも大切である、ということが分かってきました。
イエス様の言葉を借りれば「自分を愛するように、自分の隣にいる人を愛する」この事を大切にしていくとコロナ禍での生き方がおのずと道が見えてくるように思います。新型コロナウイルス感染予防を軸にした生活はまだ続きます。窮屈に思えることもありますが、その中で私たちは人として大切なことを身に着けることが求められているように思う、今日この頃です。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2021年2月3日
- 2021年『2月の聖句』
- 「絆」という言葉をご覧になって東日本大震災の事を思い起こされる方もあるかもしれません。10年前の話になりますが、あの頃「絆」という言葉が盛んに使われました。今は以前ほどではないように思います。あの時の絆はどこに行ってしまったのでしょう。
「絆」という文字はつながりとか何かを縛っておくものという意味を現します。親子の絆というものを考えてみるとそれは「つながり」であり、時には「縛り」にもなりうるものであるわけです。とは言え、私たちは普段の暮らしの中では「絆」というものをそれ程意識しないでしょう。けれども、これが一旦切れてしまった時にその大切さが分かってくる、見えてくるものです。「絆」はつなぎ続けるのにも苦労はします。保護者の皆さんもお子さんとの絆のために苦労することもあるでしょう。
この絆のために大切なことは特別なものではありません。子どもたちは家族と何気ない挨拶や言葉を交わすことなどの当たり前の暮らしを当たり前に大切にしていくことでつながれていきます。このようなことの積み重ねの先に皆さんの人としての、また家族としての「完成」が見えてくるのです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2021年1月7日
- 2021年「1月の聖句」
- 2021年という新しい年を迎えられたことを嬉しく思います。保護者の皆さんにとって年末年始の数日はどのようなものだったでしょうか。新年を迎えることは何か新鮮な、これからのことへの期待が胸の内にあるものですね。ただ、今年はあまり晴れ晴れとした気持ちばかりではないかもしれません。新型コロナウイルスのことが常に頭にあり、否応なしに感染予防のことを気にしなければならないからです。これはたとえお正月であっても、続いているものです。その意味では不安定な思いを抱えている私たちです。正直な気持ちとしては、何か頼りになるものがないだろうかと探しあぐねているのかもしれません。
「神は愛です」と聖書は告げています。私たちは先月のクリスマスの時にこのことを確かめました。「神は愛です」を言い換えれば「神様は頼りになる方です」という意味です。これからの見通しを立てにくい事情の中に生きる私たちにとって、頼りとなるものがあることは幸せなことではないでしょうか。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2020年12月9日
- 2020年「12月の聖句」
- クリスマスは、マリアとヨセフという一組の夫婦に赤ちゃんが生まれることが軸になって進む物語です。
つまり、これを読んでいる保護者の皆さんの物語です。時の権力者の命令によって身重のマリアとヨセフは旅をしなければならない、そして旅先で赤ちゃんが生まれる。そこへ、見ず知らずの羊飼いたちがお祝いにやって来る。「野原で羊の番をしていたら、天使のお告げを受け取った」と。しばらくすると、外国の3人の博士たちまで訪ねて来る。
「私たちは不思議な星に導かれて、ここまでやって来ました。」
マリアとヨセフは自分たちのことを言いふらしたわけではありません。むしろ「じぶんたちのことなど、誰も知ってはいない」と思っていました。でも神様はちゃんとご存知でした。
そして思いがけない形でマリアとヨセフは助けられ、守られて少しずつ「家族」となっていきます。クリスマスは愛の物語です。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2020年11月9日
- 2020年「11月の聖句」
- 「愛し合う」、恐らく保護者の皆さんの多くが結婚生活を始める時に願い、大切にしようと考えていたことではないでしょうか。それにしても「互いに愛し合う」、これってどんなことでしょう。「愛し合うこと」の1つの姿は「思いが通じ合う」というものです。とは言え、人の思いはなかなか分かるものではありません。
「思いが通じ合う」ことのきっかけは「共通の体験をすること」です。同じ体験に基づく思いであれば、多少なりとも分かりやすくなるはずです。キリスト教保育の2019年4月号にこんな言葉がありました。「子どもに食べさせ、着させた親が、次にする最も大切なことは、子どもに本を読んでやること」
一緒に(絵)本を読む、ということは同じ体験をするということです。そこで子どもたちが感じることを親も感じる。逆に親が感じることを子どもが感じることも出来る。そこに確かなつながりがあることを確かめることが出来ます。子どもたちと一緒に本を読むことで同じ体験を重ねる事は、愛し合うことの大切な鍵になってゆきます。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2020年10月8日
- 2020「10月の聖句」
- 乳幼児期に誰しもが触れる遊びの1つに「ごっこ遊び」があります。ままごともその1つです。皆さんもお家でなさることもあるかもしれません。我が家でもかつてそうでしたが、大抵子どもたちがお母さんやお父さんになり、親が子どもの役をやりました。子どもたちがご飯を作ってくれて「はい、どうぞ」「はい、ありがとう」(食べ終わったら)「ありがとう。ごちそうさまでした。」「どういたしまして。」何度やったか知れません。
例えば、こうした「ごっこ遊び」を通して、子どもたちは「ありがとう」と言われる立場にもなり、その嬉しさや満足感を得ます。同時に「ありがとう」という言葉が相手をどんなに喜ばせるものかを体験しています。「ありがとう」という感謝の気持ちを表す言葉は他の人を喜ばせ、自分自身も喜べるものです。
子育てや家事、仕事などで忙しい毎日を過ごしている保護者の皆さんが幸せを感じられる場面の1つに「ありがとう」があるのではないかと思います。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2020年9月3日
- 2020年「9月の聖句」
- 幼児クラスくらいの年齢になると子どもたちには「友だち」と呼べる人が出てくるでしょう。乳児クラスの子どもであっても相性の合う人、合わない人と言う意味で好みの人はいるでしょう。
「友だち」と一口に言っても色々な友だちがあります。単純な知り合い、という友だち。
一緒に何かをやり遂げた共通の体験を持っている友だち。他の人には話せないようなことでも話が出来る友だち。友だちの素晴らしいところは血がつながっているわけでもなく、仲良くしたからといってお金が儲かるわけでもなく、いわゆるメリットがなくても親身になれる、親身になってもらえる、そういう関係でしょう。そういう「友」を得ている人は幸せだと思います。保護者の皆さんはある意味で子どもたちの「友」であることを求められています。つまり子どもたちのあるがままの姿を認めて受け止め、どんなことがあっても一緒にいてくれるそういう「友」であることです。
本当の「友」がどのようなものかをイエス・キリストは身をもって私たちに現して下さっています。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2020年8月7日
- 2020年「8月の聖句」
- 「近くにいる人」で皆さんが思いつく人は誰でしょうか。多くの方が家族の中のどなたかを思いつかれるでしょうし、その中でもお子さんが浮かぶ方も少なくないでしょう。
子どもたちはいつでも誰かが近くにいてくれることを求めています。子どもたちが近くにいて欲しい人は自分の事を大好きな人でしょう。あるいは自分の事を大好きになって欲しい人に近くにいて欲しいのです。大好きな人が近くにいてくれることがどんなに力になるかを子どもたちはよく知っています。皆さんが園にお迎えに行かれた時に子どもたちの嬉しい顔を思い浮かべて下さったらよいと思います。
私たちにとっては毎日のように顔を合わせる人はたくさんの人がいます。そのうち一人でも二人でも力をもらえる関わりがあると私たちの毎日は幸せなものとなります。その中の一人のイエス・キリストがおられます。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2020年7月2日
- 2020年「7月の聖句」
- 私はこども園・保育園に出向く時、可能な限り歩いてゆきます。歩くこと自体が好きだということもあるのですが、歩きでいくと当たり前の事ですが園へ段々と近づきます。近づくにつれてわずかに聞こえて来る子どもたちの声が段々と大きくなってきます。その声は大抵活気に満ちた声です。楽し気な声です。そうした声を聞いているだけでもこちらも楽しくなります。子どもの声って不思議です。
子どもの声が活気に満ちているのは何故だろうと考えてみました。そして思い当たったのは喜んでいるから、楽しんでいるからではないでしょうか。決していいことづくめの毎日ではありません。集団生活の中では様々なことが起こります。でもそうした様々なことが子どもを通して活気と喜びとになっていきます。大人の目から見たら平凡なことであっても、その中に子どもたちが喜びや楽しみを見つけることが出来る、そんな力が子どもたちにはあるような気がします。子どもの側にいる大人が出来ることはそんな子どもたちの姿を喜ぶことではないかと思います。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2020年6月1日
- 2020年「6月の聖句」
- 人や物ごとについてどのような物差しを持っているか、「価値観」と言われるものがあります。私たちはそれぞれに何かしら自分なりの物差し、基準となるものを持っています。皆さんがご自分のお子さんを見る時にもそうした物差しが働きます。
聖書にも人に対する物差しがあります。それが今月の聖句となっている言葉で表されています。「人にはそれぞれに賜物が与えられている」賜物というのは生まれつきその人に与えられている性格・資質・才能といったものです。簡単に言ってしまえば「人間必ず1つはいい所がある」です。悪いところだらけの人間はいないのです。その人だけに与えられているものがあるわけです。
保護者の皆さんにとって子どもたちが「賜物」であるわけですが、その子どもたちにはそれぞれにその子しか持っていないものがある、その意味で1人1人が特別な存在なのです。私自身の反省も含めてですが子育て真っ最中の時にはつい「足らないところ」に目が行きやすく、「足りているところ」は当たり前のこととして見過ごしてしまうことがあります。「足りているところ」を見て、褒めて下さることが子育ての秘訣のような気がします。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2020年5月11日
- 2020年「5月の聖句」
- 今月の聖句には「あなたの名前」が出てきます。皆さんそれぞれご自分の名前をお持ちです。それは誰かが付けてくれたものでしょう。また、皆さんはご自分のお子さんに名前をつけられたでしょう。どんなことを願ったり、考えたりしてお子さんの名前をつけたでしょうか。そのことを考えて下さったらよいのです。名前は大切なものです。「名は体を表す」と言われるとおり、名前はその人そのものなのです。ということは、人の名前を大切にするということはその人を大切にすることになるわけです。
ところで神様が私たちの名前を呼んでくださると聖書は告げています。それは、神様がこの世の中に何十億といる人の中から私の名前だけを読んで下さることを現わしています。
私たちは自分の名前、子どもやその他の家族の名前をどんな思いで呼んでいるでしょうか。
コロナウィルス流行の中、窮屈な思いをしていますが、そんな中で一人一人の名前を大切さを覚えながら呼び合えるとよいなと思うのです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2020年4月6日
- 2020年「4月の聖句」
- 新年度を迎えて色々なことが新しくなったり、切り替わったりするこの時期はこれから先のことへの期待を持たせてくれる雰囲気があります。もっとも、今年は新型コロナウイルスの流行があり、普段とは様子が違う新年度を迎えています。保護者の皆さんにとっても生活面や仕事の面でなにかしらの心配や不安を感じないで毎日を過ごすことは難しいかもしれませんね。
教会の暦では今、イエス様の御生涯がどのようなものであったか、特にその後半では苦しみや悩み、悲しみが積み重なった事を心に刻んでいます。どうしてイエス様がそのような目に遭われたのか、実は私たちの人としての苦しみや悲しみ、悩みなどをイエス様ご自身が引き受けるためにそうなってくださったのです。他人の苦しみや悲しみ、悩みが分かる事は愛していることの印です。自分の苦しみや悩みを分かってくれる人がいることに気付かされると、私たちは自分の大切さにも気づかされます。こうして自分の大切さに気付いた人は、他の人のことの大切さにも思いが開かれてゆくでしょう。
苦しみや悲しみ、悩みを通してでも私たちを愛して下さるイエス様の愛にこの一年も皆さんが守られ、導かれますように。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2020年3月5日
- 2020年「3月の聖句」
- 私たちの体は食べ物によって養われ、大きくなります。体だけ大きくなれば、それで十分かと言えばもう1つ大切なことがあります。それは心が養われることです。では、心はどうやって養われるのでしょう。愛されることで、養われます。このことを「そうだ」と受け止めて下さる方も少なくないと思います。ところで、「愛」とはどういうものかを皆さんが表現して下さるとしたら、どのような表現になるでしょうか。
私たちにとって「愛」は大切なものだ、ということは私たちも分かっています。ところが、「愛」ってどんなものかを改めて見つめてみようとすると思いのほかよく分かっていないことが分かってきます。なんとなくは表現出来ても「これだ」とはっきり言い切れるものがうまくつかめないような気がします。イエス様は「あなたの隣人を自分のように愛しなさい」とおっしゃいます。それはイエス様が私たちを隣人として愛して下さっているので、私たちも愛を受け取り、自分の中に愛があるのが分かるためです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2020年2月4日
- 2020年「2月の聖句」
- 子育てをする中で大切にしたい事の1つに「子どもの満足」があります。子どもが満たされた気持ちになる、つまり「満ち足りた気持ちになる」少し大げさな表現かもしれませんが、「生きててよかった」という気持ちになるということです。
では、どういう時に「満足」を覚えるのか。いくつか挙げて見ることは出来るでしょうけれど、今月の聖句と重ねてみると「共感」という言葉が思い浮かびます。子どもが「自分の気持ちを分かってくれた」「同じ気持ちになってくれた」という思いになると、子どもたちは満ち足りた、幸せな気持ちになります。
「どうやったらそういう気持ちになれるのだろう」と戸惑う方もおられるかもしれません。でも難しいことではないのです。同じ時、同じ場所で、保護者の方と同じ体験をすればよいのです。例えば一緒にご飯を食べて「美味しいね」と声を掛けるとか、子どもを膝に入れたり、お布団の中にはいって絵本を読むなどでもよいでしょう。子どもの気持ちも動きますし、そばにいる人の気持ちも動くでしょう。こんな具合に自分の思いを受け止め、分かち合ってくれる人がいることは子どもたちの満足と幸せにつながっていきます。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2020年1月7日
- 2020年「1月の聖句」
- 「強められる」ということは外側からの働き掛けによって自分の内側に力が湧いてくるという様子を描いています。子どもたちの姿を思い起こしてみるとどんな時に子どもたちは強められているでしょう。園で過ごしている間に子どもたちは時々園の職員に「先生、見ててね」と声を掛けています。誰かが自分を見ていてくれているということが子どもたちの力になることを子どもたちも知っているからです。1人では出来ないことでも、誰かが見ていてくれると思うと力が湧いてくるのです。家庭でも子どもたちが「見ててね」と求めて来ることもあるでしょう。仕事が終わって家庭に戻れば家事で慌ただしいでしょうけれど、是非子どもたちを見てあげて下さい。皆さんの眼差しが子どもたちのやる気の源です。
新しい一年が子どもたちが強められるという家族のつながりが豊かになりますようにお祈りします。
中遠教会 牧師 兵藤 辰也
- 2019年12月2日
- 2019年「12月の聖句」
- クリスマスはとても不思議な出来事です。特別な身分でもなく、お金持ちでもなく、大工という普通の職業のヨセフとその婚約者のマリアとの間に男の子が生まれ、適当な場所がなかったので、飼い葉桶に寝かしてその夜を過ごした、あの時その場に居合わせたのは数えられる程の人たちでした。
とても小さな出来事ではありますけれど、そこには夫婦の物語があります。赤ちゃんが生まれるにあたって二人は一緒になる前にマリアが身重になるというとても大きな課題がありました。この事を巡ってお互いに気持ちが揺れたところはあったでしょうけれど、そこを神様が支えて下さいました。人と人とが一緒に生きていく時には大概何らかの課題があるものです。当人たちがしっかりすることも勿論ありますが、支えが必要でもあります。私たちはいつでもそばにあって、支えてくれるものに支えられて、自分たちに与えられている日々を過ごしているのです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2019年11月13日
- 2019年「11月の聖句」
- 「思いを一つにする」という言葉が今月の聖句には入っています。そうは言っても例えば自分自身の家庭のことを考えてみても家族全員が同じ気持ちになることは簡単なことではありません。保護者の皆さんも毎日やっておられるでしょうけれど、汚れた服を洗濯して、それを干し、たたんで片づけるということについて考えてみて下さい。人それぞれにやり方が違います。家族であってもそうです。これを同じにすることはとても大変なことです。
「一つにする」というのは何から何まで全部同じにしなければならないと考えたら息が詰まってしまいます。でも「何のために洗濯をするのか」ここを家族でお互いに分かち合うとしたらどうでしょう。働き方は違っても、同じ目的を見ることが出来れば、大変な毎日の家事を1つの目的のためにやっていることが分かれば、あとはそれぞれが自分の役割を果たせばよいということになるし、同じ目的を見つめているなら、どうやって進むかは違いがあるかもしれませんが、進む方向は同じになります。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2019年10月3日
- 2019年「10月の聖句」
- 保護者の皆さんの中にはご自分で草花あるいは作物を育てておられる方もあるでしょう。こうしたものを育てる時には土に気を遣われるはずです。湿り気がありつつ、水はけのよいものを整えますし、必要なら肥料も加えるでしょう。種や苗にとって育ちやすい土を準備します。今年私はミニトマトを種から育てました。8月の暑さが続いた時にちょうど留守にすることが重なってしまい、トマトの収穫前に苗が枯れてしまいました。土に水を貯める力があまりなかったようです。ミニトマトも繊細ですが、子どもたちも負けないくらいに繊細です。もっとも子どもたちはミニトマトと違って言葉や素振りで色々なことを伝えてくれますから、何を必要としているのかはよく見れば、よく聞けば大抵のことは分かります。
子どもたちが育っていくために必要な環境を整えると子どもたちは育っていきます。その子その子で育ちの速さは違いますけれど。育っていけば必ず実を結びます。実を結ぶことを楽しみに待っていてくれる人がそばにいてくれると子どもたちはとても心強いと思います。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2019年9月4日
- 2019年「9月の聖句」
- イエス様の弟子の一人、ペトロはかつては漁師でした。一晩中漁をしましたが、1匹も魚が獲れず網の片づけをしていた時にイエス様から声を掛けられ、もう一度湖に舟を出すことになりました。一晩中働いた体には辛い事だったと思います。そこで「沖に漕ぎ出し、網を降ろし、漁をしなさい」と言われたのです。ペトロはイエス様に言い返しています。「私たちはさっきまで漁をしていましたが、何も獲れませんでした。」最後にはペトロは言われた通り網を降ろします。すると網が破れそうになるほどの魚が獲れました。
イエス様はペトロに信じることを求めました。信じて何かを始めるところでは思いがけない出来事が私たちを待っているのです。子育ても同じだと思います。保護者の皆さんが、子どもを信じてあげるところで思いのほか大きな喜びが待っていますよ。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2019年8月9日
- 2019年「8月の聖句」
- 8月に「平和」という言葉を耳にするとかつて私たちの国も加わった太平洋戦争のことが思い起こされます。とはいっても私も保護者の皆さんも戦後生まれの者たちですから、直接の記憶ではありません。子どもたちにとってはなおさらのことです。けれども、私たちの国は「戦争」という方法で国際間の問題を解決することはしない、と憲法に定めてそのような国のあり方を保ってきました。そのおかげで今の私たちがあります。
昨今のニュースを見聞きすると70年前とは違った仕方で国同士の関係や争い事は続いています。でも恐らく違わないのは一度戦争が起こると私たちのような普通の人々も巻き込んだ争いが起こるということです。かつてはそうしたことが起こり、言葉では表せない苦しみと悲しみが起こったので、2度と同じことは繰り返さないという決意を日本国民は保ってきました。子どもたちにもこのことを伝えていく事が「へいわ」につながるものと信じます。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2019年7月1日
- 2019年「7月の聖句」
- 今年も雨が多く降る梅雨の季節に入りました。この季節は雨も多く降りますが、その中で時折差し込んでくる太陽の日差しをまぶしく感じます。我が家の玄関で育てているミニトマトが芽を出したのですが、日差しを浴びるたびに大きくなっているのに気付きます。改めて、成長のためには明るさと温かさとが必要であると思わされます。
子どもたちの成長にとっても日差しは欠かすことが出来ないものです。子どもたちにとっての明るさと温かさとをもたらす日差しは太陽だけではありません。保護者の皆さんが子どもたちを大切に思う気持ちの籠った眼差しが子どもたちの心に明るさと温かさとをもたらすものです。子どもたちは体も成長します。それに負けないくらいに心も成長します。成長に必要なものを十分に備えられる子どもたちは幸せだと私は思います。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2019年6月4日
- 2019年「6月の聖句」
- 保護者の皆さんの毎日の暮らしは「子育て」「お仕事」「家庭のこと」恐らくこれら3つのことに殆ど時間を費やしておられるのではないでしょうか。我が家にも子どもが3人います。一人は大学生、一人は高校生、一人は中学生です。子どもたちが保育園でお世話になっていた時と見える形は変わっても私自身の毎日の殆どは相変わらず子どもの事、仕事、家庭のこと、この3つで占められています。嬉しい事や楽しいことも勿論ありますけれど、時にはこうした毎日が続く中でしんどく感じることがあります。「自分は何のためにこうした毎日を送っているのだろう」ため息が出ることがあるのも事実です。
少し言い方を換えてみましょう。「子どもたちは何のためにこの世に命を授かったのでしょうか。」聖書は答えています。「喜ぶため、楽しむため」であると。子どもたちの人生は子どもたちのものです。決して親の持ち物ではありません。ため息が混じる時もありますが、皆さんが子どもたちの毎日を支える中で子どもたちの喜ぶ姿、楽しんでいる姿が現われてきます。これが出来るのは親である皆さんだけであるように思います。
中遠教会牧師 兵藤辰也
- 2019年5月12日
- 2019年『5月の聖句』
- 5月は外出するのに気持ちの良い時期ですね。身の回りにある自然の環境に親しむ機会が多くなることでしょう。これらのものは私たちが生きていくためにはなくてならないものでもあります。その一方で、自然の環境の営みは私たちにとって恐ろしいものでもあります。
地震や大雨などによって大きな被害を受ける事も起こります。こうした体験によって私たちの力をはるかに越えるものがあることを知らされます。私たちが住んでいる静岡県でも「東海地震(最近では東南海地震)がいつ起こってもおかしくない」と言われて50年ちかくなるでしょうか。その時には一体どんなことが起こるのか、恐ろしい気もしますし、備えをしておく必要はあるでしょう。
確かに不安や心配もありますし、自然の様々な営みはとても大きな力があり、人間の手には余ってしまうものです。それをも包んでいるのが神様である、と聖書は告げています。
途方もない程の大きな力に小さな私たちは包まれながら毎日を暮らしています。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2019年4月2日
- 2019年 「4月の聖句」
- 先日の年度末の聖隷こども園・保育園職員に向けた年度末研修会での講演で講師から次のような話を聞きました。「私たちは身の回りにいる人々や物から様々な機会を与えられて自分自身を育てていく」そのための大切な要素の1つとして「あることについて誰かが範を示してくれること」がありました。クリスマスの時にお生まれになったイエス・キリストはその後の生涯を通して私たちに「神を愛し、人を愛する」ことの範を指し示してくださいました。イエス・キリストの姿を見ると愛することが分かります。
聖書はイエス・キリストが重い犯罪を犯した人として十字架に付けられて死に、3日目に復活されたことを私たちに告げています。これはどんなことによっても、どんなものによっても断ち切られることのない愛という絆が神様と私たちとの間にあることを現わしています。
「死ぬ」というところまではいかないまでも、私たちも毎日の子育てや仕事の中では嬉しい事・楽しい事ばかりでなく、悲しい事や苦しい事、悩む事もあるでしょう。時には何が頼りになるのかが分からなくなることもあるかもしれません。
どんな時であってもイエス・キリストが私たちを愛し、私たちの味方になってくださる、これがキリストの復活によって現わされた神様の愛ですし、これを子どもたちも受け取りながら、毎日を過ごしています。
中遠教会牧師 兵藤辰也
- 2019年3月7日
- 2019年3月の聖句
- 上にある聖書の言葉は、園として子どもたちに身に着けて欲しいことであり、成長の目当てでもあります。園の職員たちはこのことを目指して保育をしています。こうした子どもたちに対する願いや目当てなどを保護者の皆さんも抱いておられるかもしれません。その時に一番効果的なやり方は子どもたちの近くにいる人が願っていることを実際にやって見せることです。なぜなら「子どもたちの身近にいる大人の姿を見て学ぶ」(「キリスト教保育」2019年2月号より)からです。必要なのは立派な言葉・正しい理屈ではないようです。
「愛する」と言うと少し大げさに響くかもしれませんが、肝心なのは子どもたちのことを大切に思い、子どもたちのことを心に留めている人がそば近くにいること、と言えそうです。
子育て・家事・仕事など忙しい毎日を過ごしている皆さんだからこそ、時々深呼吸をして子どもたちを大切に思い気持ちをしっかりと整えて子どもたちのそば近くにいてみてはどうでしょう。思いがけず見つかるものがあるかもしれません。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2019年2月5日
- 2月の聖句
- 先日NHKの総合テレビを観ていましたら子育て中の母親を応援する働きをしている女性を取り上げる特集がありました。子育て支援センターのようなところで働くその女性は支援センターを利用するために足を運ぶお母さんたちに声を掛けて話をすることに努めているとのことでした。
この女性が利用者である一人の母親とのやり取りが映し出されていました。最初は何気ない立ち話なのですがそのうち椅子に座って話し始め、「実は子どもがかわいく思えない。」といった会話にもなり、それに女性は頷いていました。そして更に話し込んでいくとその母親自身が子どもの頃両親が厳しかったので甘えることが出来なかった、だから自分自身が子どもとどうやって向き合ったらよいのかが分からない、そんな話をするまでになりました。そうやってひとしきり自分の思いを話した母親はすっきりした面持ちになったことが印象的でした。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2019年1月16日
- 2019年 『1月の聖句』
- 2019年という新しい年を迎えられ、園便りをお読みになる皆さんは気持ちを新しくされ幾つかの新しい願いや計画などを持っておられる方もあるでしょう。
イエス様は私たちに「求める」つまり祈りをすることを促しています。このような促しがなくてもお正月に願いをすることは知っているとお考えになる方もあるかもしれません。祈りや願いは独り言ではない限り、必ず相手が必要です。皆さんは誰を相手にして祈ったり願ったりしているでしょうか。
皆さんは日ごろの子育てでお子さんから皆さんへの沢山の願いや求めを向けられ、それに応えるということを繰り返しています。それだけ子どもたちから頼りにされている印ではありますが、時にはそれが重荷になってしまうこともあるかもしれません。そういう皆さんだからこそ、自分の心からの思いを話し、頼りに出来る相手が必要です。そのような相手として父なる神様のことをイエス様は示して下さっています。 皆さんの祈りと願いとを父なる神様が聞き届けてくださいますように。
中遠教会 牧師 兵藤 辰也
- 2018年12月4日
- 2018年 12月の聖句
- 園舎の周りや保育室の中にクリスマスをお祝いするための準備が少しずつ始まった頃かと思います。クリスマスは不思議なもので子どもたちがこれから起こることをワクワクしながら毎日を過ごしていることがいつも以上によく現われてくる時期のように思います。何故なのでしょうか。
子どもたちがワクワクした気持ちになるのは、子どもたちが勝手に気分を盛り上げてそうしているのではないでしょう。普段からそばにいる園の職員や家族の方たちがワクワクした気持ちを抱きながら過ごしていることが伝わっているからではないかと思います。このワクワク感はどこから来るのでしょう。
クリスマスにはお祝いをする、楽しいことが、素晴らしいことが起こる、そのようなこれから起こることへの期待といったものを私たちに伝えてくれるものがあるからだと私は考えます。自分たちの行く末には素晴らしいことが起こる、この期待こそがクリスマスから与えられるものです。そしてこの期待を持ち続けて生きる人は必ず幸せが訪れる。このことを今月の聖句の指し示す「救い主」は皆さんに約束し、この約束を果たすためにクリスマスの時にお生まれになったのです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2018年11月2日
- 2018年『11月の聖句』
- ぶどうの木とその枝に実をつけている様子を皆さん見たことがあるでしょうか。ぶどうの木が実を結ぶために農夫は世話をします。そこでの世話の仕方は決まったことを決まったようにやる、というものとは違うように思います。農夫はぶどうの木の様子をよく見て、その時々に応じて何をしたらよいかを判断して必要なことをやっていきます。この点から言えば、ぶどうの木を育てるのが上手な農夫はぶどうの木をよく見て、ぶどうの木の様子を正確につかむことの出来る人と言ってよいでしょう。
子育てにもこれに似通ったところがあるように思います。子どもの様子をよく見ると何を、どうしたらよいかが分かってきます。ずっと見続けている必要はありません。たとえ時間が短くても、子どもの心と体の様子を知りたい、と思って見ることが上手な子育ての始まりなのかもしれません。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2018年10月1日
- 2018年『10月の聖句』
- 私たちは結構欲の深い者です。自分のやったことについてはその努力に見合う結果を欲しがるものです。私自身もそういうところがあって、我が家の子どもたちに日ごろの暮らしの中で小さなことでも「ありがとう」と言って欲しいと心の中で求めています。子育てでも「子どものため」と言いつつ、自分がやったことについてはそれなりの見返りを期待し、求める気持ちは誰にでもあるものでしょう。
保護者の皆さんは子どもたちの育ちのためにはやらなければならないことが沢山あるわけですし、それらは必要な事・大切な事です。ただし、皆さんの労苦が皆さんの思い描く通りに目に見える結果として現れるかどうかは誰にも分からないものです。皆さんがやったことに見合う結果を子どもたちが出すかもしれませんし、出さないかもしれません。もしかしたら、皆さんがやった以上の結果を子どもたちが出すことだって考えられるわけです。 子育ては不思議なものだと思います。
- 2018年9月6日
- 2018年 『9月の聖句』
- 園での子どもたちの様子を見ていると、子どもたちの中で常に働いている求めがあるのではないかと思わされます。それは「喜び」です。子どもたちは常に「喜びたい」(快さを求める)という気持ちに動かされて保育者や友達と過ごしています。
一口に「喜び」「快さ」と言っても色々なものが考えられますけれど、今月の聖句からくみ取ることの出来る「喜び」「快さ」は「分かってもらえる」喜びです。これは子どもたちに限った話ではなく、保護者の皆さんにとっても「喜べる」ことです。例えば一日の仕事で疲れて家に帰った時に「お疲れ様」と声を掛けてもらえる、
家族の誰かが普段よりも余計に家事を手伝ってくれたということがあると嬉しくなるでしょう。こういうことがあると不思議と元気が湧いてきます。
保護者の皆さんも忙しい毎日を過ごしているでしょうけれど、そうした毎日の中で「分かってもらえる」喜びを味わえる人は幸せだと私は思います。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2018年7月5日
- 2018年6月の聖句
- 今の季節は鳥をはじめ様々な生き物、植物などが生き生きと活動しています。私が住んでいる教会の近くには公園があって時々足を運ぶと燕がしきりに飛び交っています。園によっては園舎に燕が巣を作っているのをご覧になる方もいらっしゃるかもしれませんね。燕の姿をしばらく眺めてみるとなかなか忙しいものです。一体いつ休むのだろうと心配になるくらいにせわしく動き続けています。そのほとんどがヒナのためのことのように見えます。
保護者の皆さんも毎日の時間のほとんどを家事と子育て、仕事に費やしておられるだろうと思います。時には疲れが溜まってしまうことやなんとなく行き詰まりをおぼえる時があるかもしれません。そんな時に空の鳥の姿をよく見てみなさい、とイエス様はおっしゃいます。ぼんやり眺めなさいではなく、しっかりと見てごらんなさい、とおっしゃいます。普段、近くにありながら見落としているものを改めてしっかりと見つめているといつの間にか心がリセットされることがあるかもしれません。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2018年7月5日
- 2018年5月の聖句
- 「羊飼い」の大切な務めは羊たちを養い、育てることです。その点からすると子どもたちにとっての保護者の方たちは育ててくれる羊飼いのような存在といってよいでしょう。羊たちは羊飼いを頼りにします。というのは羊は敵から身を守るための術をもっていないからです。目も遠くを見ることが出来ません。だからいつも仲間のそばにいる必要があります。子どもたちもやはり保護者の皆さんのそばにいたがることが多いと思います。まだ助けてもらったり、支えてもらう必要が色々な意味であるからです。子どもたちは保護者の皆さんを頼りにしているのです。
頼りにされることは嬉しいことですし、励みになります。ただ、時として頼りにされる事に辛さや大変さを感じることもあるかもしれません。もしもそうなった時に皆さんご自身が頼りに出来る方がいることを思い出していただきたいです。イエス・キリストは私たち全ての者の良い羊飼いだからです。
- 2018年3月23日
- 2018年4月の聖句
いつも一緒にいてくれる人がいることはなんと心強く、幸せなことでしょう。子どもたちにとっては保護者の皆さんが「ともにいる」人であり、ついで園の職員たちが「ともにいる」人となるでしょう。そのうえ自分と一緒にいてくれる人が自分のことを喜んでくれたり、受け入れてくれる人であればその心強さと幸せはなおさらのことです。
4月になり新しい年度が始まりました。子どもたちにとっても園の職員たちにとっても新しい年度が始まります。何かが新しく始まる時というのは何かとドキドキするものです。時には不安な気持ちになることもあるかもしれません。そして同時に新しい事へ挑戦するチャンスでもあります。
子どもたちがドキドキしながら、不安になりながらも、一緒にいてくれる人がいると新しい事へと向かうことが出来ます。信頼感によって支えらえるからです。この信頼感を私たちに与えるためにイエス・キリストはよみがえられたのです。どうぞこの年度も子どもたちと共にあることを大切にしてください。そうしたところによみがえられたイエス・キリストも共におられます。
- 2018年3月1日
- 2018年3月の聖句
- この原稿を書いている時は冬のオリンピックが韓国で行われている最中でした。テレビの中継で選手たちの色々な活躍の姿を見ることが出来ます。何人かの選手の競技後のインタビューの中で「たくさんの人たちに支えられてオリンピックで競技をすることが出来ました」というような言葉を耳にしています。確かにテレビの映像として映るのは選手の競技をする姿が多いわけですが、そこに至るまでには人が見ていない所での練習や努力なしにはその姿はないわけですし、そうした選手を支える大勢の人々の働き抜きには選手の活躍はあり得ないものでしょう。
競技とは違う要素もありますが、子どもたちが毎日を心・体健やかにその子らしく過ごすことは保護者の皆さんの支えなしには成り立たないものです。どれほど子どもたちを支えるとしても褒められることはほとんど無い子育てですけれど、皆さんの働きぶりが子どもたちの幸せな毎日に現れるものですし、それこそが保護者の皆さんへのメダルであるように思います。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2018年2月1日
- 2018年2月の聖句
- 2018年1月11日
- 2018年1月の聖句
- 2017年12月1日
- 2017年12月の聖句
- 2017年11月1日
- 2017年11月の聖句
- 2017年10月3日
- 2017年10月の聖句
- 2017年9月1日
- 2017年9月の聖句
- 2017年8月1日
- 2017年8月の聖句
- 2017年7月3日
- 2017年7月の聖句
- 2017年6月5日
- 2017年6月の聖句
- 2017年5月8日
- 2017年5月の聖句
- 2017年4月6日
- 2017年4月の聖句
- 2017年3月14日
- 3月の聖句
- 2016年度も最後の一ヶ月になります。昨年4月の頃の様子と比べると子どもたちは心も体も成長したことを保護者の皆さんも見て取り、感じ取ることが出来るのではないでしょうか。とても嬉しいことだと思います。
「愛する事」は自分のためにするのではなく、相手(例えば子どもたち)のため、ということが中心に置かれることです。この一年間を振り返って保護者の皆さんが子どもたちの心と体との成長を認めることが出来るとしたら、それは皆さんが自分を中心としないで、子どもたちを中心にこの一年間を過ごして来たということの印です。親であるならば当たり前のこと、と言おうと思えば言えますけれど、しかし、これは簡単に出来ることではないと私は思います。そして保護者の皆さんが自分のことを削りながら子どもたちのために生きて下さったからこそ今日(こんにち)の子どもたちがいるのです。
こんな一年を過ごして来た保護者の皆さんも子どもたちと一緒に親として、また人間として成長してきているのです。愛に生きられる人として。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2017年2月7日
- 2月の聖句
- 2017年1月6日
- 1月の聖句
- 2016年12月2日
- 12月の聖句
- 2016年11月2日
- 11月の聖句
- 2016年10月8日
- 10月の聖句
- 2016年9月1日
- 9月の聖句
- 2016年8月9日
- 8月の聖句
- 2016年8月9日
- 7月の聖句
- 2016年6月3日
- 6月の聖句
- 周囲の緑が輝いて見える季節になりました。この世界は神様によって造られた、と聖書は告げています。
「天地創造の物語」です。この物語の終わりで神様はご自分のお造りになったすべてのものをご覧になり「極めて良い」とされたのです。
「極めて良い」ここには園の子どもたちも当然入っています。子どもたちはとてもよいものとして生きている、聖書からはこのメッセージを聞き取ることが出来ます。不思議なことに神様が「極めて良い」とされる時に理由はありません。それには理由があります。
生きていることそのものを神様は「極めて良い」とされたからです。生きていることそのものがとても大切であり、意味のあることなのです。
子育てには肝心なことが幾つかあります。その1つが「子どもを極めて良いもの」と信じ、見つめることではないでしょうか。そのようなまなざしで保護者の皆さんから見つめられる子どもたちは幸せです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也
- 2016年5月19日
- 5月の聖句
- 2016年4月6日
- 4月の聖句
- 2016年3月14日
- 3月の聖句
- 2016年2月5日
- 2月の聖句
- 2016年1月5日
- 1月の聖句
- 2015年12月7日
- 12月の聖句
- 2015年11月12日
- 11月の聖句
- 2015年10月1日
- 10月の聖句
- 2015年9月1日
- 9月の聖句
- 2015年8月10日
- 8月の聖句
- 2015年7月1日
- 7月の聖句
- 2015年6月2日
- 6月の聖句
- 「キリストは私たちの平和です」 (エフェソ2章14節)
- 2015年5月7日
- 5月の聖句
- 「はじめに神は天地を創造された」 (創世記1章1節)
- 2015年5月7日
- 4月の聖句
- 「隣人を自分のように愛しなさい。」マタイ22章39節
- 2015年3月4日
- 3月の聖句
- 「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」
-ルカによる福音書 11章27節-