<今月の聖句> 「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」
マタイによる福音書6章28節
先日、燃えるゴミの日に集積場まで歩いて行きました。いつも通っている道なのですが、曲がり角のアスファルト舗装の割れ目からスミレの花によく似た植物が生えているのに気づきました。「いつの間に生えたのだろう、どうやって生えたのだろう」と思いました。前回同じ場所を通った時には気づきませんでした。今月の聖句からあのスミレの花を思い出すのです。
思うに、どこからか花の種が運ばれて、道端の隙間に落ちて芽を出したのでしょう。植物のたくましさに改めて驚かされました。同時にたぶん、その場所を通るほとんどの人から気づかれないままにあのスミレはやがてスミレらしく芽生え、育って、花を咲かせ、次の命を生み出して枯れるのでしょう。そう思うと少し寂しい気もします。でも周りから見落とされてしまう小さな命であっても、そこに確かに目を注ぐ方がおられる。主イエスはそうおっしゃいます。そして小さな私たち一人一人にも神様は確かに目を注いでいて下さいます。 中遠教会牧師 兵藤辰也
マタイによる福音書6章28節
先日、燃えるゴミの日に集積場まで歩いて行きました。いつも通っている道なのですが、曲がり角のアスファルト舗装の割れ目からスミレの花によく似た植物が生えているのに気づきました。「いつの間に生えたのだろう、どうやって生えたのだろう」と思いました。前回同じ場所を通った時には気づきませんでした。今月の聖句からあのスミレの花を思い出すのです。
思うに、どこからか花の種が運ばれて、道端の隙間に落ちて芽を出したのでしょう。植物のたくましさに改めて驚かされました。同時にたぶん、その場所を通るほとんどの人から気づかれないままにあのスミレはやがてスミレらしく芽生え、育って、花を咲かせ、次の命を生み出して枯れるのでしょう。そう思うと少し寂しい気もします。でも周りから見落とされてしまう小さな命であっても、そこに確かに目を注ぐ方がおられる。主イエスはそうおっしゃいます。そして小さな私たち一人一人にも神様は確かに目を注いでいて下さいます。 中遠教会牧師 兵藤辰也