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2022年度

3月 「光の子として歩みなさい」 エフェソの信徒への手紙 第5章8節

 この聖句は、私たち聖隷こども園「ひかりの子」が最も大切にしている、この園の名前の由来となっている聖書の御言葉です。
 聖書が語る「光」とは何でしょう。自分自身がキラキラと輝く、素晴らしい存在となる。その力を身につけることを喜ぶ。そういう光、と言うこともできるでしょう。しかし聖書は、そのことと共に、こうも言いたいのです。「光」、それは、自分以外の誰かを明るく照らし出すために存在するものです。光そのものが主役であるのではなく、光によって誰かを輝かせること。それが光の大切な務めだ、ということです。そして自分以外の誰かを輝かせることに、自らの生きる喜びを見出す者。それこそ聖書の語る「光」であり、「光の子」です。
 今年度も終わりに近づいています。この世界、私たちの日常、喜びもありました。しかし暗いこともまた多かった。自分も、周りの人も、その暗さに心が押し潰されそうな時もありました。しかし聖書は言います。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」。この「ひかりの子」で、聖書の言葉を聞き、子どもたちを通じて、一緒に生きた皆が、「光の子」になっている。光を知らされ、周りを輝かせることができる、その喜びに、共に生きている。「光の子として歩みなさい」。この望みの御言葉を共に噛みしめることができる幸いを思います。
遠州教会 牧師 石井佑二

2月「ここに愛があります。」 ヨハネの手紙一 第4章10節

 この聖句の全体はこうです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。私たちは側にいる大切な人を愛し続けたい、と願っています。しかしちょっとしたことで、言い争い、その人を憎らしく思ってしまうことがあります。いつも完全に愛する、というのは難しいことです。それでは、完全な愛を持てない私たちは、その大切な人との愛のつながりもすぐに失ってしまう、ということでしょうか。そうではありません。聖書は言います。何より先に「神がわたしたちを愛して」くださり、愛するあなたと、あなたの大切な人とが、一緒にいられるようにと導いてくださった。一時、あなたがその人を憎らしく思ってしまい、完全な愛が持てなくても、それでも神様はあなたとあなたの大切な人が一緒にいられるように、あなたたちを愛し続けてくださる。そのこととして救い主イエス様を与えてくださった。そこから、あなたたちは、いつも相手との愛のつながりの回復を思うことができる。このことを信じて欲しい、と言うのです。
 私たちは自分の愛の不完全さに悩みます。しかし、何より先に「神が私たちを愛して」くださったと信じるなら、私たちは、自分たちを指して「ここに愛があります」と言える。いつも愛の回復を信じられる、その喜びを生きられます。

遠州教会 牧師 石井佑二

12月 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」       ルカによる福音書 第1章38節

天使ガブリエルが、マリアに言います。「あなたは男の子を身ごもる。その子は救い主イエス様。あなたを通して全世界の救いの出来事が明らかにされる」。その言葉を聴いて、マリアの心は大きな不安を憶えました。マリアはヨセフと婚約中です。これからの人生、ささやかであろうけれども、ヨセフと共に幸いな家庭を築いていきたい。そう願っていました。しかしそこに、「全世界の救い主を身ごもる」と驚くべきことを知らされるのです。戸惑うマリアに天使は言います。「神様ご自身が、あなたの恐れも、不安も、全てを知っていてくださり、全てを受け止める。神様が、あなたの思いを越えて、真実の恵みと幸いを与えてくださる」。この言葉を聴いて、マリアは言います。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。
マリアは、神様の御言葉に捉えられて、「自分」を変えられた人です。私たちの心は、いつも頑なです。自分の周りの人が変わってくれることは願いつつ、自分が変わることは願わない。しかし神様は、そんな私を新しくしてくれます。人生の不安も戸惑いも、全て神様が受け止めてくださっている。クリスマスはその恵みが明らかにされる時です。この恵みの御言葉に耳を傾ける時、マリアと同じように、私たちの心は、不安や戸惑いがあるこの人生を新しく捉え直し、そこで生きられる様に、新しく変えられる。その力をいただきます。

遠州教会 牧師 石井佑二

11月 「わたしの隣人とはだれですか」 ルカによる福音書 第10章29節

ある聖書の専門家がイエス様に、隣人愛に生きるとはどういうことかと問い、言います。「わたしの隣人とはだれですか」。イエス様はその問いにお答えになりません。代わりに、次のたとえ話を語るのです。
ある人が、追いはぎに襲われ、半殺しの目に遭い、道端に捨てられていました。そこをユダヤ人の祭司、またレビ人が通りますが、どちらも関わり合いになることを嫌い、通り過ぎてしまいます。しかしそこに、あるサマリア人が通り掛かり、この半殺しの目に遭った人を助けます。手当てをし、宿屋に連れて行き、出来る限りの配慮をしました。イエス様はそのお話を語った後、聖書の専門家に言います。「行って、あなたも同じようにしなさい」。
 「わたしの隣人とはだれですか」。この聖書の専門家の問いは、「私と隣人愛の関係を持つのに相応しい人とは誰か」と問うている言葉です。おかしな問いです。隣人愛に資格や条件など必要ない。隣人愛とは、あなたの方から無条件に、苦しむ人の側に「行って」、その人の隣人となって、支える愛です。その愛は、あなた自身のこれまでの人生が、多くの「隣人」となってくれた人から、そして救い主イエス様から、無条件に愛され、支えられている、その事実に気付き、感謝をすることから始まります。この気付きと感謝から、今度はあなたが、苦しむ人の側に行って、その人の隣人になり、隣人愛に生きられる。その力が与えられるのです。

遠州教会 牧師 石井佑二

10月 「その人は豊かに実を結ぶ。」 ヨハネによる福音書 第15章5節

私たちの人生は、何らかの「実を結ぶ」ことが大切だ、と考えられます。しかしその「実を結ぶ」人生とは何のことを言うのでしょう。努力を積み重ねて、良い結果を出すことでしょうか。そうであるかもしれません。しかしそれならば、努力をしても良い結果を出せなかったとしたら、その人生は「実を結ぶ」とは言えない人生であった、ということになるのでしょうか。そんなことはありません。神の子イエス様は言われます。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15・5)。この「つながって」とは、「共にいる」という意味です。ここで言うのは、イエス様があなたと共にいることで、あなたを通して神様の御心が表わされる、ということです。神様の御心は、この世界を救い、真実の喜びと平和に満ちた世界を完成することです。その御心を実現するために、あなたの存在そのものが必要なのだ、と言われる。あなたの人生で、成功失敗はあるでしょう。しかしそのことに関係なく、あなたの人生の全てを必要とし、あなたの存在の全てを重んじてくださる神様がおられる。このことを知る時、私たちは自分の人生で、成功や失敗に縛られてしまう、その心から解き放たれます。そしてそこでこそ真実に、全て神様にとって無駄なものは無い人生、「実を結ぶ」あなたの人生を歩める。そうイエス様は言われるのです。

遠州教会 牧師 石井佑二

9月 「あるものは百倍にもなった。」 マルコによる福音書 第4章8節

イエス様が「種を蒔く人のたとえ」を語っています。それは、神様がどんなに皆のことを大切に思い、愛しているかを教えようとしておられる御言葉です。
ある農夫が畑に種を蒔いています。イスラエルの農業のやり方は、種を一掴みにして、バッサバッサと畑に蒔き、それから土地を耕します。そうすると種は畑ばかりでなく、色々なところに飛んで行きます。ある種は道端に、ある種は石だらけの所に、またある種は茨の中に。それらの種は土から栄養を取ることができなくて、すぐに枯れてしまいました。しかしその中で「良い土地に落ち」た種があり、その種は「芽生え、育って実を結」びます。そしてその中の「あるものは百倍にもなった」と言うのです。
このたとえにおいて、種を蒔く農夫は父なる神様、蒔かれる種は神様の恵みとして与えられる愛のしるしです。そして蒔かれたそれぞれの土地は私たち自身です。神様は愛のしるしとしての種が、何倍にも実をならせることを求められます。そして大切なことは、神さまは私たちのことを「良い土地」として見てくださり、「あなたなら、この愛を受けて、更に沢山の実をならせ、色々な人に愛を与えることができる」と、神様があなたを信頼している、ということです。あなたは愛の人として生きられる。そう神様があなたのことを信頼している。聖書はこの神様から私たちに示された、愛と信頼の言葉なのです。

遠州教会 牧師 石井佑二

8月 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」            テサロニケの信徒への手紙一 第5章16~18節

イエス様の弟子パウロが、神様の救いの恵みに相応しい生き方とはどのようなものか、ということについて語ります。それは「いつも喜び、祈り、何事にも感謝することだ」と言います。しかしそう言われて、誰もが思います。「そんなにいつもいつも、喜んで生きるとか、何事にも感謝し続けることなんかできませんよ」と。パウロは「無理してでも喜べ!」という無理難題の命令をしているのでしょうか。いいえ、そうではありません。ではどういうことでしょう。この18節の、続く言葉が大切です。こう言うのです。「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。ここで言うのは、神様が、その独り子イエス様の救いの御業によって、私たち人間との絆を確かにする、ということ。そして神様御自身が、その私たち人間と繋がり合うことを「望んでおられる」ということです。実は神様の方が、私たち人間のことを大切に思い、私たちが今を生きていることそのものを喜んでくださっているのです。神様は、私たちの存在そのものをご自身の喜びとして受け入れてくださる。あなたの人生の全ては神様に受け入れられています。だから、いつも喜び、祈り、感謝しよう、とパウロは言うのです。その勧めの言葉は、あなたの全てを受け入れ、あなたの存在を喜んでくださる神様がおられることを言い表す言葉なのです。

遠州教会 牧師 石井佑二

7月 「主に向かって心からほめ歌いなさい」  エフェソの信徒への手紙 第5章19節

 イエス様の弟子パウロは、エフェソの教会の人々に言います。「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(5・19)。この時エフェソの教会の人々は、一つの教会の中で、それぞれの考え方の違いからグループができ、それらが分裂してしまう、悲しい状況にありました。そこでパウロは、そこからの回復があるようにと、この言葉を語るのです。
「詩編と賛歌と霊的な歌」とは、神様を礼拝する時に歌う讃美歌のことです。それを皆で歌い、「主に向かって心からほめ歌いなさい」。皆で、神様を見上げて歌う。その時に、あなたたちはもう一度一緒になれる。なぜならそこで、神様御自身が一緒に喜びの歌を歌いたいと願い、導きの手を差し出してくださっているから。その神様の手を、あなたたち皆、それぞれ取って、一緒に歌おう。そうすれば皆、互いに新しく「語り合う」ことができる。神様が必ず皆の手をもう一度つなぎ合わせてくださる。そうパウロは言うのです。
これは今日の私たち皆に言われている言葉です。世界中の全ての人を愛する神様が、イエス様の十字架の犠牲によって私たちの罪を全て赦してくださっています。この神様の愛を知る時、今、どんなに深い分裂の中にある人同士であっても、互いに許し合い、一緒に喜びの歌を歌い、新しく語り合うことができる。この祝福が語られているのです。

遠州教会 牧師 石井佑二

6月 「探しなさい。そうすれば、見つかる」  マタイによる福音書 第7章7節

 私たちは「自分には、これが必要だ」と思い、それを探し、手に入れようと努力します。しかしそれが手に入らない、ということもある。その挫折感が、「どうせ駄目だ」という諦めの心を生むかもしれません。しかしその私たちにイエス様は言われます。「探しなさい。そうすれば、見つかる」。父なる神様があなたを「神の子」として愛してくださっている。「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(11節)。父は、自分の子どもに「良いもの」を与えようと、いつも備え、その子ども以上に、子どもに何を送ったら良いのかを知っている。だから、神の子であるあなたが、求めたものが手に入らなくても、諦めることはない。父なる神様が備えておられる、本当にあなたにとって必要なもの、それをくださいと、なお祈りなさい。神様はその祈りを喜んで受け入れてくださる。そうイエス様は言われるのです。
羽仁もと子という教育者がこう言います。「『どうせ駄目だ』という心は、人間の心の中に、巣食うばい菌みたいなものだ。しかし、悪い菌も日光にあてれば死滅する。同じように神様の光に照らされた時に、この心のばい菌は死ぬ」。イエス様を信頼し、神様に祈る時、私たちの諦めという心のばい菌は、この神様の光によって消毒されます。そして新しく「よし、やってみよう」という思いが与えられるのです。

遠州教会 牧師 石井佑二

5月 「子供たちをわたしのところに来させなさい。」  マルコによる福音書 第10章14節

 神の子、救い主イエス様が、お弟子さんたちと一緒に、神様の救いの素晴らしさを教える伝道の旅をしていました。ある日、イエス様のところに、人々が小さな子ども達を連れて来て「この子ども達を祝福してください」と願い出ました。しかしそれを、周りにいたお弟子さんたちが止めました。「とんでもない。私たちは毎日イエス様にお仕えし、一所懸命神様の教えを勉強している。それをしたこともない子ども達に、イエス様から神様の祝福をいただける資格があるはずがないでしょう」。そう思ったのです。しかしイエス様は言われます。「子供たちをわたしのところに来させなさい」。そう言われ、「子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福され」ました(16節)。イエス様はここで、神様から愛され、その祝福をいただくのに、何も資格やふさわしさなど必要ない、と言いたいのです。救い主イエス様が、その懐に招く者は、子どもでも大人でも、誰であっても神様の愛と祝福をいただける。神様から愛される資格やふさわしさが、自分には有るとか無いとか、そんなこだわりから解き放たれて欲しい。無条件に、あなたにも、皆にも与えられている恵み、愛の祝福を、喜んで受け取ることができる。この素晴らしい招きの中に、聖隷こども園ひかりの子の皆が、今、入れられているのです。

遠州教会 牧師 石井佑二

4月 「光の子として歩みなさい」  エフェソの信徒への手紙 第5章19節

 イエス様の弟子パウロは、エフェソの教会の人々に言います。「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(5・19)。この時エフェソの教会の人々は、一つの教会の中で、それぞれの考え方の違いからグループができ、それらが分裂してしまう、悲しい状況にありました。そこでパウロは、そこからの回復があるようにと、この言葉を語るのです。
「詩編と賛歌と霊的な歌」とは、神様を礼拝する時に歌う讃美歌のことです。それを皆で歌い、「主に向かって心からほめ歌いなさい」。皆で、神様を見上げて歌う。その時に、あなたたちはもう一度一緒になれる。なぜならそこで、神様御自身が一緒に喜びの歌を歌いたいと願い、導きの手を差し出してくださっているから。その神様の手を、あなたたち皆、それぞれ取って、一緒に歌おう。そうすれば皆、互いに新しく「語り合う」ことができる。神様が必ず皆の手をもう一度つなぎ合わせてくださる。そうパウロは言うのです。
これは今日の私たち皆に言われている言葉です。世界中の全ての人を愛する神様が、イエス様の十字架の犠牲によって私たちの罪を全て赦してくださっています。この神様の愛を知る時、今、どんなに深い分裂の中にある人同士であっても、互いに許し合い、一緒に喜びの歌を歌い、新しく語り合うことができる。この祝福が語られているのです。

遠州教会 牧師 石井佑二