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2023年度

3月 「光の子として歩みなさい」エフェソの信徒への手紙 第5章8節

 聖書は「光」と「闇」のイメージを良く語ります。私たちの生きる世界、日常生活には沢山の「闇」があります。不安な事、悲しい事、苦しい事。真っ暗なトンネルの中を歩いているようです。しかし聖書の証しする神様は、そんな不安の暗闇の中を歩む私たちに、「光」を与えてくれるのです。神様の独り子、救い主イエス様は「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われます(ヨハネ8・12)。暗闇の中を歩む私たちの手を取って、光の道しるべとなって、私たちを助けてくれます。「あなたは独りぼっちではない。私が共にいる」。そう言ってくださるのです。
 私たち聖隷こども園ひかりの子が一番大切にしている、冒頭の聖書の言葉も言います。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主〔イエス様〕に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」(エフェソ5・8)。イエス様の導きを信じる私たちは、もう暗闇の中を歩む者ではなく、「光の子」となって、毎日を歩みます。そしてその私たちは、イエス様が私たちを導いてくれたように、私も、今なお暗闇が続くこの世界の中で苦しむ誰かの「光」になって、孤独な不安に苦しむ人を助ける者となれるのです。この聖隷こども園ひかりの子で、救い主イエス様に結ばれた私たちは、神様からそのような力を与えられ、この世を生きられるのです。

遠州教会 牧師 石井佑二

2月 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」 ローマの信徒への手紙 第12章15節

 人と人とが共に生きるにおいて、相手の喜びを共に喜ぶ。相手の悲しみを共に悲しみ、共に泣く。それは素晴らしいことです。しかしそれがとても難しいことであると、私たちは思わされます。この世界で、違った考えを持ち、違った人生を過ごして来た人同士が思いを一つにすることが出来ず、争ってしまう。私たちの生活の場面においても、周りの人の喜びを妬ましく思ってしまう。自分の涙する悲しみを誰も分かってくれないと思ってしまう。そんなことがどれだけ多いでしょう。
 イエス様の弟子パウロは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と言います。そして同じ聖書の少し前で、こうも言うのです。「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており」(ローマ12・5)。イエス様が、私たち皆を結び付けてくださっている。ある人が言いました。人が人と結びついて、共に生きるためには「愛の想像力」を養われなければならない。人の喜び、人の涙をイメージする力を養うのです。聖書は言います。救い主イエス様は、私の喜び、私の涙を、誰よりも理解し、深い想像力を持って、全て受け止めてくださる。ここに愛がある。その同じ愛を、私の周りの人にも与えてくださっている。「愛の想像力」は、このイエス様を通して、私と周りの人が、共に結ばれて、共に生かされていると知る、その時に真実に養われる。そこに人と人が共に生きる道があります。

遠州教会 牧師 石井佑二

1月 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」 ヨハネによる福音書 第15章5節

 イエス様はぶどう畑をイメージして、譬えを語っておられます。太いぶどうの木の幹から幾つも細い枝が出ています。その枝は細く弱々しく見える。しかし確かに木の幹とつながり、遠くまで枝を伸ばします。この木の幹が救い主イエス様、つながる細い枝が私たちです。今月の聖句に続く聖書の言葉はこうです。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。木につながる枝の先に、豊かな実りがある。このぶどうの実り、それは神様の御心の実現を表わします。神様はこの地上に、人と人が愛し、喜んで生きる平和の世界を造る事を御心とします。それを、私たちを通して実現されるのです。私たちはそのことに対して「そんな重大な務めを担うことはできません」と言いたくなるかもしれません。しかし大丈夫です。イエス様はここで「実を結べ」と命令しているのではありません。私たちを見て、「あなたたちはこの世において「『豊かな実を結ぶ』」、それが出来ると確信しておられるのです。どうしてでしょう。それこそ、「あなたと私は、ぶどうの木と枝のようにつながっている。絶対に離れないからだ」と言うのです。イエス様の救いの力、その太い木の幹から、命の栄養分がいつも与えられる。イエス様が必ず、いつもあなたを守り、導く。そう言うのです。この約束の中で、私たちは愛と喜びに生きられる。その命の道が示されるのです。

遠州教会 牧師 石井佑二

12月 「ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」 イザヤ書 第9章5節

 イエス様が生まれる700年前。神様の言葉を預かり語る、預言者イザヤによって語られた、イエス様誕生の預言の言葉です。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。……平和は絶えることがない」(イザヤ9・5~6)。神様は言われます。「全世界の人間の救い主として『ひとりのみどりご』『男の子』、イエス・キリストをあなたたちに与える」。しかしなぜ、救い主は「みどりご」、赤ちゃんなのでしょう。赤ちゃん、何の力も持たない者です。神の子イエス様が、最も小さい、力のない、人間の赤ちゃんとなって、「わたしたちのために」生まれて来てくださった。そうして私たちと同じ人間としての日々を過ごし、私たちの生きる辛さ、苦しさを全て受け止めてくださるのです。そのイエス様が、私たちに仕え、私たちの人生を支え、導いてくださる。そこに私たちの救いが語られます。権威を持ったイエス様が、私たちのために、低く、小さくなり、私たちに仕えてくださる。救い主は、自ら人間に仕えることで、人間に、互いに仕え合うことを求めます。そして人間に「平和」に生きる道を示されるのです。この救い主は私たちを平和に導く、平和の主です。
 イエス様の誕生、クリスマスの出来事。それは、ずっと神様に憶えられている、私たちの救いの約束の実現、平和の実現。その大きな喜びの出来事です。

遠州教会 牧師 石井佑二

11月 「地はお造りになったものに満ちている。」 詩編 第104編24節

 詩編第104編を書いた詩人は、自然世界を見ながら、その美しさに感動しています。空に浮かぶ雲、吹き行く風、雄大な海、山々と谷間を行く川の水、大地に沸き立つ泉、大地に茂る森の木々、そこに生きる動物たち、月と太陽によって知らされる一日の時間や季節の移り変わり。それらを見つめ、そこで今月の聖句の言葉を記すのです。「主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。」(詩編104・24)
 聖書の最初、創世記第1章に、神様がこの自然世界を創造された記述があります。光を創り、海と大地を創り、様々な生き物を創り、太陽と月と星を創り、そして人間を創りました。神様は、そうして世界の一つひとつを創り上げる度に、それを見つめ「良しとされた」「極めて良かった」と言い、喜ばれたと言われます。この世界は、神様にとって喜ばしい、神様の愛に満ちた、「良い」ものです。
 世界には、悲しい出来事が沢山あります。しかし神様は世界を「良い」
もの、神様の愛に満ちるものとして創ってくれました。私たちもまた、神様に「極めて良い」ものとされ、生きています。詩編の詩人が、自然世界を見て、神様の素晴らしさ、神様の愛に生かされている喜びを賛美した。私たちもまた自然世界の中で、この詩編詩人と同じ、神様に生かされる喜びの心を持って、この世界を生きることができるのです。

遠州教会 牧師 石井佑二

10月 「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」 ヨハネによる福音書 第10 章16 節

 羊はとても弱い生き物。臆病で、ちょっとでもびっくりすると、途端にパニックになってしまいます。また一度地面に倒れると、自力で起き上がることもできません。そして羊は大変方向音痴で、群からはぐれて迷子になってしまうと、もう自分でどこに行って良いのか分からなくなってしまう。聖書は言います。その弱い羊、それは私たち人間一人ひとりのことだ、と。臆病で、力なく、倒れたら自力で立ち上がることもできず、道に迷ったらどうして良いか分からなくなってしまう。
しかしその弱い私たちのために、イエス様が御自分を示し、こう言います。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10 ・1212)。人間は弱い。弱いから、他人に対して壁を作り、自分を強い者と偽り、人と一緒に生きて行くことができなくなってしまう。頑なな罪の心が人間にはある。しかしイエス様は言うのです。「私はあなたを愛し、命を捨ててでも、あなたを守る。もうあなたは自分を頑なにして、強いふりをしなくて良い。私の愛の中で、心を柔らかにして、周りの人と一緒に生きて行きなさい」。「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」。良い羊飼いに導かれる羊が、他の羊と一緒に幸せに生きるように、あなたも、イエス様の愛に守られて、周りの皆と一緒に、幸せに生きることができる。そのイエス様の導きを信じて欲しい。そう私たちに言われるのです。

遠州教会 牧師 石井佑二

9月 「人はパンだけで生きるものではない。」 ルカによる福音書 第 4 章 4 節

 イエス様は神様の救いを宣べ伝える伝道を始める前に、荒れ野に赴き、何も食べない断食の時を持たれました。自分を空っぽにして、神様の導きに従う歩みをするためです。その時に、悪魔が現われ、イエス様を誘惑します。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」。悪魔は言うのです。「あなたなら、こんな石ころからでも自由に食べ物を手に入れられるでしょう。あなたはそれ程に素晴らしい力を持っているのだから、神様に従う事など止めて、自分の思うままに生きて行けば良いではないか」。そう言っているのです。パン、食事が、あなたの力だけで手に入るでしょう、と言って、その食事を得られた事への「感謝」の心を持たせないようにしているのです。そうして「感謝」の心を持つ事で生まれる神様や、周りの他者との繋がりを断ち、その人を孤独に追い込もうとする。それがここでの悪魔の企みなのです。それに対して、イエス様は言われます。「人はパンだけで生きるものではない」。人を生かす食事、糧。それは様々な助けがあって、今、それをいただく事が出来る。その良き導きを与えてくださった神様の恵みが、その食事、糧には詰まっている。そのことへの「感謝」を忘れてはいけない。そう言われるのです。このイエス様の御言葉に倣う時、私たちも、日々「感謝」に生きられる。そこに、私たちも悪魔の企てに勝てる、その道があります。

遠州教会 牧師 石井佑二

8月 「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。」 創世記 第9 章13 節

 創世記第66~9 章に記される「ノアの洪水物語」。地上に悪が溢れてしまった。神様はそれを悲しみ、全てを洪水で滅ぼされます。しかしノアとその家族だけは正しい心を持っていたので、ノアに大きな箱舟を造らせ、家族と世界中の動物の雄と雌とが入って、洪水から生き延びるようにと導かれました。ノアは神様の言う通りに箱舟を造り、皆その中に入ると150 日、大雨が降り続き、地上は全部洪水で流されました。箱舟は水の上を漂います。やがて雨も上がり、水も引き、遂に箱舟は乾いた大地にたどり着きました。ノアと家族、動物たちが箱舟から出て、神様を礼拝しました。その時に、神様はノアを祝福し、神様の守りを与えると約束しました。そのしるしとして「わたしは雲の中にわたしの虹を置く」と言われ、その虹を見る時、「わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める」と言われるのです(15 節)。人間への祝福と守りの約束をした、そのことを神様が、この虹を見て思い起す、と言うのです。人間がどんなに悪に傾いても、神様はご自身のご決断として、人間を祝福し、愛し続ける。その神様の、人間への祝福と愛の約束をご決断くださった、そのしるしとして、今も雨上がりの空に、虹は架けられます。私たちもまた虹を見る度、神様の祝福と愛のご決断をいただいている、その幸いを思い起こせるのです。

遠州教会 牧師 石井佑二

7月 「主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。」 詩編 第5編4節

 この詩編の言葉を書き記した、聖書の民イスラエルの二代目の王ダビデ。その人生にはいつも大きな苦しみがありました。先代の王サウルから疎まれ、自分の息子との確執を経験し、そして自分自身の罪の問題。様々に苦しみます。しかしひたすらに神様に自分の進む道が示されるよう祈りました。この詩編もその一つです。「主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください」。困難な日々の中で、毎朝、神様に祈るのです。続く言葉はこうです。「朝ごとに、わたしは御前に訴え出て、あなたを仰ぎ望みます」。「訴え出て」とは「まっすぐに神様のもとに近づく」という意味です。自分の抱える苦しみ、困難。それらを、まっすぐに神様を見つめながら、全部神様にお委ねするのです。神様が、私にこの苦しみと困難の中で、新しく生き抜く力を与えてくださる、と信じ、希望と信頼を持って、神様に祈るのです。
 救い主イエス様は言います。「あなたがたの天の父〔神様〕は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(マタイ7・11)。ダビデの祈りは、何者よりも親しくあってくださり、力強い、天の父なる神様への信頼の祈りでした。必ず、私の祈りを聞き、最も良い答えを与えてくださる。その信頼に立ち、いつも祈った。それがダビデの人生の力となりました。私たちも、同じく神様に信頼し、祈ることができる。そう聖書は教えてくれています。

遠州教会 牧師 石井佑二

6月 「主はわたしたちを造られた」 詩編 第100編3節

 「私とは何者で、どうしてこの世に生まれ、生きているのだろう?」私たちは、人生で辛いことが重なり、また世界中で悲しい争いが続いていると知らされる時、特にそう思います。この詩編の詩人も同じ思いを持ったのです。その時に神様から示されます。冒頭の聖句の直前、「喜び歌って御前に進み出よ」(2節)。御前、神様の前に出て、お祈りをし、礼拝をしてごらん。詩人はそのようにしました。そこで「主はわたしたちを造られた」と気付かされるのです。「そうだ、私は神様によって造られた者なのだ」。このことは聖書の最初、創世記に書かれています。神様が世界を造り、その時に人をもお造りになった。そこでこう言うのです。「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1・27)。神様は御自分に似せて、人を造られた。何が似ているのか。それは姿形ではなく、神様のように誰かを愛し、助け、その誰かと一緒に生きることを喜ぶ。そこが似ているのです。生きることに悲しくなり、辛くなる時、神様の前に出て、「私とは何者か」と問う人は、神様から「あなたは私によって、周りの人と愛し合って生きられる、素晴らしい存在として造られたのだ」と知らされます。その時私たちは、辛いこと、悲しいことがあっても、それでも「主はわたしたちを造られた」と語り、喜んでその人生を、誰かと共に生きられる、その力を得るのです。

遠州教会 牧師 石井佑二

5月 「主よ、お話しください。僕は聞いております」 サムエル記上 第3章9節

 この言葉は、預言者サムエルが少年の時、神様の導きの声を聴き、戸惑いながらもそれに応答した、その言葉です。ここからサムエルの、神様からの大きな使命を帯びた人生が始まります。サムエルの人生は、神様の救いの言葉を人々に語る「責任」を与えられたものでした。ところでこの「責任」を、英語で“responsibility”と言います。日本語で「責任」と言われると、すぐに「悪いことをしたので、謝罪して責任を取る」という、ネガディブなイメージを持つかもしれません。しかしこのサムエルの人生から見える、聖書の語る「責任」とはそうではないのです。この言葉は“response”「応答」と“ability”「能力」あるいは「可能性」という言葉が組み合わさったものです。つまり聖書で言う「責任」に生きるとは、「神様から示された使命を受け止め、同時に、それを成し遂げることが出来る『能力』、『可能性』をも神様が与えてくださると信じて、しっかり『応答』していくこと」を意味するのです。聖書は言います。あなたが何か「責任」や使命を帯びて生きる時、神様は必ず、それをやり抜く力、そこで生きる力を与えてくださる、と。
 神様が導きを語り、少年サムエルは「主よ、お話しください。僕は聞いております」と応え、人生を生きる力を得ました。私たちも祈りの中で、神様の導きの声を聴き、それに応え、そして人生を生きる力をいただける、その時が備えられています。

遠州教会 牧師 石井佑二

4月 「光の子として歩みなさい」 エフェソの信徒への手紙 第5章8節

 聖書で「光」という時、何がイメージされているのでしょう。別の箇所にこうあります。「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネ福音書1・5(口語訳))。光が闇と戦い、そして光が勝つのです。この世界に暗闇がある。私たち一人ひとりの心の中に暗闇がある。それは私たちの生きる力を奪い、立ち上がれなくさせます。しかし聖書は、その暗闇に勝つ、光の力がある、と言うのです。それが神様、救い主イエス様です。聖書はこの「光」、救い主イエス様による神の救いを信じる時、あなたも暗闇に勝つ「光」になれる、と言うのです。エフェソ5・8の全体はこうです。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主〔イエス様〕に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」。
 あなたは神様に愛されている、神様の大切な子どもです。そのことを知ったあなたは、もう暗闇に支配されない。暗闇に勝てる。イエス様と同じ「光」になれる。そして暗闇があるこの世界を光で照らし、なお側にいる人が暗い心にあるなら、その人を光で照らし、生きる力を与えられる。そういう「光の子」に、あなたもなれる。そうこの聖句は言っています。
 これがこの聖隷こども園「ひかりの子」が最も大切にし、その歩みの土台となっている聖書の言葉です。新しい年度、この聖書の言葉の支えをいただいて、一緒に歩み出しましょう。

遠州教会 牧師 石井佑二