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2025年度

4月 「光の子として歩みなさい」 エフェソの信徒への手紙 第5章8節

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」(エフェソ5・8)。これは私たち聖隷こども園ひかりの子が、一番大切にしている聖書の言葉です。
 神様の言葉である聖書は、何度も「光」について語ります。光は、人に勇気を与えます。光は、疲れて倒れてしまった人にもう一度立ち上がる力を与えます。光は、暗さの中に落ち込んでしまった人の心に喜ばしい明るさを取り戻させます。そうして聖書は「光」を、人間の救い、救いの道しるべである、と語るのです。
 その聖書が、私たちに言うのです。「あなたがたは、……光となっています」。それは「光り輝く者になれ」とか、「努力をしてあなたの光を輝かしなさい」と言っているのではないのです。「あなたは光だ」と言っているのです。神様が私たちを見て、私たちの存在そのものが、誰かにとっての光である。暗さがあるこの世にあって、「あなたは、全ての人間にとっての光、生きる道しるべだ」と、言っているのです。
 聖書の神様は、私たちを無条件に肯定し、私たち自身では思いもしなかった、自分という存在の深い意味を教えてくれます。「光の子として歩みなさい」。この言葉は、神様が私たちを、徹底的に愛し抜いてくださっているところで語られる言葉です。私たちひかりの子は、このように私たちを愛してくださる神様に支えられて、皆で一緒に歩んで行きます。
遠州教会 牧師 石井佑二

5月 「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」 マタイによる福音書 第6章28節

イエス様が「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」という、この御言葉を語るその前後で、何度も「思い悩むな」と言われます。私たちは、色々なことで思い悩みを抱えてしまいます。人間関係の困難さ、生活の悩み、勉強や仕事の悩み、将来ヘの不安……。そういったことに上手く対応できない。そんな自分の小ささを思うと、思い悩みで心がいっぱいになってしまいます。しかしその私たちに、イエス様は言われるのです。「この『野の花』を見て見なさい」。ここで言う「野の花」、それは誰も気に留めないような、本当に小さな小さな存在です。こんなに小さいものなのに、でも美しく花を咲かせている。それは「神はこのように装ってくださる」からだ。そして重ねて言います。「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(30節)。どうか忘れないで欲しい。神様は、あなたが幸せに生きるのに必要なものが何であるのか、良くご存じていてくださる。そして小さな小さな野の花に、必要なものを喜んで与えてくださる神様は、愛するあなたが幸せに、今日を、明日を生きるために、本当に必要なものを「みな加えて与え」てくださる(33節)。「野の花」を通して、この神様を一緒に見上げよう。そうしたらもう、不安に生きることはない。思い悩むことなく、喜んで、一緒に生きてこう。そう仰ってくださるイエス様が、あなたと共にいてくださります。                    
遠州教会 牧師 石井佑二

6月「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。 そうすれば、見つかる。」マタイによる福音書 第7章7節

イエス様は「父なる神様に、いつも『求めて』生きる者でありなさい」と言います。しかし、いったい何を「求めて」生きろ、と言われるのでしょうか。私たち自身、人間として「何を求めて生きるのか」と考える。それはとても大切なことです。その場限りの、欲望を満たす「求め」などではなくて、本当に、自分の人生に幸いをもたらすものを、求めて生きられたら、これ以上素晴らしいことはないでしょう。それをイエス様は率直に教えてくれています。それは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(12節)ということです。他者への愛に生き、自分を他者に献げること。ここに人間として本当の幸いな人生の道がある。そこに生きることを求めなさい、と言うのです。私たちは「そんな生き方は出来ない」と思ってしまうかもしれません。しかしイエス様は、あなたが「他者への愛」に生きることを求める時、必ず、その愛に生きられる力が「与えられる」と言うのです。なぜなら、このイエス様ご自身が、罪人である私たちを愛し、私たちの罪の赦しのために、十字架で命を献げてくれたからです。このイエス様の愛を知る時、私たちは自分の欲望を満たす「求め」に生きるのではない。イエス様の愛に応え、他者を愛し、他者のために自分を献げて生きる。その幸いを「求めて」生きる者に、必ずなれる。
そうイエス様は教えてくれているのです。
遠州教会 牧師 石井佑二