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2026年度

4月 「光の子として歩みなさい」 エフェソの信徒への手紙 第 5 章 8 節

冒頭の聖句は、全体を見てみるとこうです。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、
光となっています。光の子として歩みなさい」。
私たちは、人生の日々を生きる時、暗いトンネル中をずっと歩んでいるような思いになることがあります。
それは辛い経験です。しかしその人々に、聖書は語り掛けたいのです。「あなたがたは、この世の本当の『光』
の源である神の子、救い主イエス様に愛されて、『光』をいただいている」。「光」そのものであるイエス様
ご自身が、あなたの今生きているところに来てくださり、いつも共にいてくださっている。暗闇の辛さ、孤
独や寂しさがある。しかし実は、目には見えないけれども、あなたの心の中にイエス様が一緒にいてくださ
り、その苦しい道のりを共に歩んでくださっている。それを信じて欲しい、と言うのです。
そして聖書は、そのようにイエス様の愛の光の中、イエス様が共にいてくださると信じる人は、その人自
身が「光となっています」と言うのです。あなたが、イエスさまの愛の光をいただいた人として、周りの人
たちにとっての「光」となって、その行く道を光で照らして生きることができる。それで「光の子として歩
みなさい」と言うのです。
私たち「聖隷こども園ひかりの子」は、イエス様の愛の光をいただき、またその者として、周りの皆を明
るく照らし出す力を得る。その成長の日々を、共に歩みます。
遠州教会 牧師 石井佑二

5月 「これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には 不思議に見える。」  マルコによる福音書 第12章11節

イエス様が人々に譬え話を語り、旧約聖書を引用して、冒頭の御言葉を語りました。厳密に言えばこうです。「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える」。この引用の言葉も、一つの譬え話です。ある人が家を建てようと、地面を整地します。そこに石があった。「これは役に立たない、邪魔なものだ」。そう思い、その石を土地の隅っこに放り捨て、そうして家を建て始めた。しかしいざ家を建て始めると、その地面は軟弱で、建物の一番負荷のかかる所を、固くしなければならなかったのです。それでどうしたか。あの「役に立たない、邪魔だ」と思って捨てた石を、もう一度持って来て、それを家の土台として一番大切なところを支える「親石」にした、と言うのです。
 イエス様は、これが主なる神様のものの見方だ、と言いたいのです。この世の価値観の順位付で、あるものが優先されない等ということが起こってしまう。しかし実は、そのものにこそ神様は特別な役割を与えていてくださり、私たち皆が共に生きるために、実はそのものこそ、無くてはならない存在なのだ、と捉えていてくださる。その、存在そのものを愛する眼差しにこそ見えてくることがある。この愛の心は「わたしたちの目には不思議に見える」。でも、本当の素晴らしい命の導きはこういう所にこそ表われる。それが聖書の勧めです。
                                     遠州教会 牧師 石井佑二  

6月 「見よ、それは極めて良かった。」   創世記 第1章31節

聖書の最初の創世記に、神様がこの世界を七日掛けてお造りなられたことが記されています。一日目、神様は光をお造りなり「良しとされた」。二日目、大空と海を造り「良しとされた」。三日目、大地とそこに芽生える草木を造り「良しとされた」。そういう具合に一日一日、世界を造り、生き物を造り、その様子を神はご覧になり、喜ばれるのです。そして六日目、神様はこの地上に人間を造ります。そしてその人間と共に、この世界全体を見て言われるのです。「見よ、それは極めて良かった」。これは神様が徹底的に、この世界を、そしてこの世界に生きる人間を喜び、肯定してくださっている、その言葉です。
 私たちはこの世界に生きるにおいて、様々な苦しいこと、悲しい事を経験します。その時に「神様は何をしているのか」「こんな苦しみの中にあるのに、神様は私を無視するのか」。そう思ってしまいます。しかしそうではない。神様は、あなたがこの世で生きることを真実に喜ばれるのです。あなたがこの世で生きていてくれていることを喜び、「見よ、それは極めて良かった」と言ってくださる神様です。この神様の思いを知らされながら、もう一度この世を、そして自分自身を見つめる時、私たちはこの世の中で位置付けられている本当の自分自身の価値が分かります。私は神様にとって「極めて良かった」とされている者である。そんな自分の素晴らしさに気付けるのです。
                                     遠州教会 牧師 石井佑二

7月 「 探しなさい。そうすれば、見つかる。 」   マタイによる福音書第7章7節

イエス様が言われます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7・7)。諦めずに、自分に必要なものを求め続け、探し続けることが勧められ、「そうすれば、見つかる」と言われます。しかし私たちの実際の生活は、必要なものを得ようと、勉強や努力を重ねても、それを得られなかった、ということを多く経験しています。そういうことをイエス様は知らないのでしょうか。そうではないと思います。ここで大切なことの一つは、すぐ後で、こう言っていることです。「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(マタイ7・11)。イエス様は言うのです。「あなた方一人ひとりは、神様が大切にしてくださる神の子です。父なる神様は、その子にとって、今、何が必要か、良く知っていてくださり、それを与える用意をしてくださっている」。その神様への信頼に生きて欲しい、と言うのです。求めても得られない、探しても見つからない、ということに心を煩わすのではなく、その時にこそ、必要なものを神様が与えようと備えていてくださっている、と信じる。その時に、自分でも気付けなかった、本当に自分にとって必要なものを神様が与えてくださる将来の時がある。その時に向かって、諦めることなく、進むことが出来る。イエス様はそう導いてくださっているのです。                                 
                                     遠州教会 牧師 石井佑二

8月「 平和な人には未来がある。 」   詩編 第37編37節

詩編が収められた旧約聖書の書かれた元々の言葉であるヘブライ語において、「平和」は、「シャローム」と発音する言葉です。そしてこの言葉は、日本語の「平和」という言葉でイメージされるような、「争いやトラブルがない、穏やかな状態」ということとは少し違うニュアンスを持っています。旧約聖書で「平和」(シャローム)と言われる時、いつもそれは「壊れたものが回復される」という意味合いがあるのです。旧約聖書の時代を生きた人々は、他国との戦争に敗れ、敵から暴力を受け、政治的な圧力を被り、自分たちの秩序や平安が壊れてしまった中にありました。その中で「平和」を語る時、いつもその、辛い現実からの回復を願い求める、その思いがあったのです。
詩編第37編の詩人も「平和な人には未来がある」と歌いながら、実は「未来なんて見えない」と思わないではいられないはずの、苦しい状況にあったのです。しかし詩人は、神様を信頼し、「平和」を願い求めます。その神様への強い信頼に立つことで、敵からの暴力に対して暴力で返すのでなく、政治的な圧力に対して報復を考えるのでもなく、神様が「平和」の回復を与えてくださると信じ、そのことで、未来に対する望みを持って生き続けたのです。
今日を生きる私たちにも、本当の意味で、未来に対する望みを与えてくれるものとは何なのか。深く問われ、考えさせられる思いがします。皆さんはどうですか?
        遠州教会 牧師 石井佑二

9月 「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください。」 

この聖書の御言葉は、イエス様の譬え話しです。百匹の羊を持っている人がいた。その内の一匹がいなくなってしまった。そうしたらその人が、いなくなってしまった一匹を見つけ出すまで捜し回る。そして見つけたら、友達や近所の人と一緒になって喜ぶ。そういうお話しです。ここでのイエス様の言葉は、さも「九十九匹を残してでも一匹を捜し回って当然でしょう、当たり前でしょう」と言わんばかりに語られています。しかし「当たり前だ」とイエス様が言われる程、それを私たちは「当たり前」とできているでしょうか。
 イエス様の心は、百匹の羊、その「全てが一緒にいる」ことが大事、ということです。一匹でも欠けてしまうこと、誰かが苦しみ、傷付き、独りぼっちになってしまう事、その事に深く心を痛めるのです。だから何としてもその一人を、捜して捜して捜し回って、その人との繋がりをもう一回、何度でも、明らかにし続けるのです。
そしてイエス様は、この譬え話をお語りになることで、私たちの心の中にも同じ羊飼いの心を造り出そうとされるのです。あなたも、あなたと共に生きる人の中で独りぼっちになってしまっている人がいたら、その人を全力で助け、一緒に生きて欲しい。そしてそこで、皆に対して「一緒に喜んでください」と呼び掛ける大きな喜びの出来事が起こる。私たちはいつも、そうして喜んで、仲間たちと共に生きる。その招きをいただいています。
                                    遠州教会 牧師 石井佑二

10月 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」   ローマの信徒への手紙 第12章15節

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。美しい言葉です。しかしこれを実際にやってみようとなると「難しいな」と思ってしまいます。他方で、私たちは、周りの人が、自分の喜びを一緒に喜び、自分の悲しみを一緒に悲しんでくれることを求める、そんな身勝手さを持っている。それを否定できないと思います。どうしたらよいでしょうか。
聖書は言います。まずは愛される経験を沢山すること。沢山愛された分、沢山愛することができるようになる。そこから愛を知るのです。
神の子、救い主イエス様は、聖書の福音書の物語において、周りの人々から「罪人だ」と見下され、孤独の中にある人と一緒に生きて下さりました。孤独の中で、一緒に喜んでくれる人も、悲しんでくれる人もいない人。イエス様はそういう人の所に行って、一緒に語らい、一緒に食事をし、日々を共に生きてくれました。その人を愛し、その人の罪の赦しのために、イエス様は十字架に架かり、人間の罪の裁きの全てを、身代りに引き受けてくれました。そうして「自分はイエス様に愛され、この罪を赦してくださった」と知った人は、イエス様が自分にそうしてくれたのと同じように、周りの人への愛に生きられるようになったのです。
 この愛と赦しが、私たちにも与えられます。イエス様に支えられて、私たちも、周りの人と、喜びと悲しみを共にして生きられる者となれる。その導きの中にあるのです。
                                     遠州教会 牧師 石井佑二