「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」
ローマの信徒への手紙12章15節
聖隷三方原病院 池谷明高
愛するとは、どんなことがあってもその人から心が離れない、踏みとどまることです。子どもでも誰でも、人を育てる、人を支えるには、この踏みとどまることが必要です。泥を被ることもあるでしょう。暴れる子どもを抱きしめ、落ち着くまでじっと耐えることもあるでしょう。欲しいものから離れられない子どものそばで、子どもが諦めるまで待つことも。
子どもと喜び、泣く。その時、自分もこうして一緒に泣いてくれた人、一緒に喜んでくれた人がいたことを思い出すに違いありません。私達は生まれる時から死ぬ時まで、誰かの支えなしには生きることができない存在です。子どもだけでなく、大人であれ誰であれ、支えてくれる、共に担ってくれる人、踏みとどまってくれる人が必要なのです。
共にとは、分ち合うこと、担い合うことです。どんな重荷も、苦しみや悲しみも軽くされて、乗り越える、耐えることができます。誰かの重荷を担おうとすれば、自分の重荷を担ってくれる人が与えられます。生きる喜び、希望も、分ち合う関わりの中でこそ与えられます。その恵みを、子ども達と共に味わいたいと思います。
愛するとは、どんなことがあってもその人から心が離れない、踏みとどまることです。子どもでも誰でも、人を育てる、人を支えるには、この踏みとどまることが必要です。泥を被ることもあるでしょう。暴れる子どもを抱きしめ、落ち着くまでじっと耐えることもあるでしょう。欲しいものから離れられない子どものそばで、子どもが諦めるまで待つことも。
子どもと喜び、泣く。その時、自分もこうして一緒に泣いてくれた人、一緒に喜んでくれた人がいたことを思い出すに違いありません。私達は生まれる時から死ぬ時まで、誰かの支えなしには生きることができない存在です。子どもだけでなく、大人であれ誰であれ、支えてくれる、共に担ってくれる人、踏みとどまってくれる人が必要なのです。
共にとは、分ち合うこと、担い合うことです。どんな重荷も、苦しみや悲しみも軽くされて、乗り越える、耐えることができます。誰かの重荷を担おうとすれば、自分の重荷を担ってくれる人が与えられます。生きる喜び、希望も、分ち合う関わりの中でこそ与えられます。その恵みを、子ども達と共に味わいたいと思います。



