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園長コラム

『 東京 2020 パラリンピック 』

夏の名残 が残りつつも 、遠く 澄んだ 空や朝夕の心地よい風に秋の気配を感じます。
さて、 東京 パラリンピック の選手の皆さんの活躍は素晴らしいですね 。 中でも、 浜松市出身の 鈴木孝幸 選手が、 50 m 平泳ぎの銅 メダル に続き、100m 自由形 では、 パラリンピックレコードで金メダルを獲得しました。東京パラリンピック日本選手第 1 号、静岡県勢第 1 号の金メダルで した 。 その後、 150 m個人メドレーで銅メダル、 200 m自由形で銀メダルと今大会 4 個のメダルを獲得しています。 自身 の メダルは 9 個目、金メダルは北京の50m 平泳ぎ以来 2 個目となります。 5 大会連続出場のレジェンドであり、 競泳チームの主将を務めるベテラン 、 日本が世界に誇るパラリンピアンです。 6 年 の リオ大会ではメダルを逃し ましたが 、 そこから 拠点とする英国で 、 映像分析からフィジカル面の改善 、 筋力トレーニングに重点的に取り組みま した 。 自身 13 年ぶりのパラリンピックの頂点は、 「また新しい気持ちで金メダルをもらえたような感覚で、全く別ものだった。」 と 喜びを口にしました 。 なんと 彼は 、 わかば保育園(現在の聖隷こども園わかば)の卒園児 なのです。入職した ばかりの私にとって彼との出会いは衝撃でした。 スケートボードを颯爽と乗りこなし、何でもやってのけるバイタリティ はもちろん、 屈託のない笑顔とやんちゃな眼差しには、何か人を 引き付け る魅力がありました 。彼は 、 先天性四肢欠損という障がいをもって生まれました。左手の指は 3 本。右腕は肘から先がなく、指 は1本 。右脚は大腿部から、左脚は膝から下がありません。それでも 「自分が障がい者であるという意識は中学生になる頃までなかった。友達に恵まれたんだと思います。保育園から健常者と同じ学校に通っていたし、一人でポツンと過ごすこともなかった。むしろ、お調子者だったんですよ。自分が 目立 てることがあれば、それがうれしくて。どちらかと言えば、物事をポジティブに考える方だった。好奇心が旺盛で、何でも【自分でやってみたい】と思えた。人を笑 わせることが好きで、【人前に出たくない】という気持ちもほとんどなかった。周囲の人から“できないこと”の方が多いと思われる中で、 割と できること も多かったんです。だから褒めてもらえることが多かったし、それがうれしくて【 あれ も できる】とみんなに見せたかった。障がい者だからと言って卑屈になることもなく、健常者に対して反発心を覚えることもなかった。心の中にあった思いは、むしろその逆。 【 どうすればみんなと一緒に楽しめるか 】 の 1 点 。 分かりやすいのは 、 体育の授業。僕はいつも、どうやったら一緒にできるか、どうやったら自分も活躍できるかを考えていたんです。サッカーをやれば、走るスピードは絶対に負けてしまうからパスをもらいやすい場所にいる。鬼ごっこをやる時は、絶対に見つからない場所を探す。友達も絶対に容赦しなかったので、何をやるにもいつも本気で した。 パラリンピックに出て 鈴木孝幸という人間を、水泳を通じて知ってもらい、アピールすることができたと思います。でも、水泳だけが僕の全てじゃない。しっかりとした人生プランは、まだ立てていません。ただ、アスリートとしての時間が多く残されているわけではないので、スポーツやパラリンピック、パラリンピック水泳に関わりながら、もうひと花咲かせたいんです。自分にとっては、水泳だけが全てじゃないと思っているので、僕自身の違う部分で、自分なりに達成感を得られるものを探しています。今まで練習に費やしていた時間( 1週間 15 時間、 1 カ月 60 時間の練習時間)を他のことに使えたら、自分には一体何ができるのか。そう考えると、引退後の人生 も楽しみで仕方ない。」 と 語っていま した 。 わかば保育園 の 園目標 「子ども自身に生きさせよ」の言葉通り、 たくさんの人に 愛され 、自分らしく 伸び伸び育った 彼 は、 表現力が とても豊かです。 彼にとって水泳は、あくまで自己表現のための手段の一つなのだと思います。ユーモアがあって、ポジティブで、頭の回転が速くて… そんな 幼少期から変わらない人を引き付ける魅力と存在感をもち、世界の頂点に立った今でも なお 、 進化し続け る 鈴木孝幸 選手 を 、 陰ながら応援し てい ます 。