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今月の聖句

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2021年10月6日
2021年『10月の聖句』
今回は「ともだちひきとりや」という絵本を紹介します。イノシシとイタチはとても仲良しでした。ただ、イノシシが威張りすぎるのがちょっぴり残念。ちょっとしたことをきっかけに仲が悪くなってしまいます。そこでキツネとオオカミが「ともだちひきとりや」に扮して登場。イノシシは早速イタチを引き取ってもらいます。気が付くとイノシシは一人ぼっち、向こうの方ではキツネとオオカミとイタチが仲良く遊んでいます。一人に耐えきれなくなったイノシシはもう一度「ともだちひきとりや」を呼んで、今度はイノシシ(つまり自分)を引き取ってもらう。こんなお話です。
 私たち一人一人が「そこにいる」ということがどれだけ大切で、なくてはならないものであるか、ということに気付かされる絵本です。保護者の皆さんも忙しい毎日ですが、家庭の中で一人一人がそこにいるという当たり前な事の素晴らしさを味わって下さると、その度に皆さんの毎日は幸せなものになると思います。

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2021年9月10日
2021年「9月の聖句」
教会での結婚式では結婚する二人が誓いをする場面があります。「私は健やかな時も、病む時もこの人を愛することを誓います。」保護者の皆さんも既に味わっていることですけれど、結婚生活・家庭生活は健やかで平らな道を歩く時ばかりではなく、険しい坂を登っていくような苦しみ、谷を下るような不安も起こります。そうした中で夫婦もお互いに振る舞いが変わったり、言葉遣いが変わったりということが起こります。私たちを取り巻く事情が移り変わっていくように、皆さん自身も変わっているのです。そして子どもたちも。
 その一方でいつも変わらないものがあります。それは私たちがそれぞれに「自分らしく生きていきたい」と思っている事です。言い換えると「愛されたい」です。「愛」は自分で自分に与えることは出来ませんけれど、他の人に与えることは出来ます。誰かが「その人らしく生きるため」の応援であれば、私たちにも十分出来るという不思議なものです。
 今私たちはとても窮屈な毎日を過ごしています。その毎日の中でイエス様は私たちを愛して下さっています。だからこそ、私たちも互いに愛し合うようにと導かれているのです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也

2021年8月6日
「2021年『8月の聖句』
今月15日は終戦記念日、太平洋戦争が終わったことを記念する日です。76年前のことになります。私自身もそうですが、直接その頃のことを体験した人も少なくなってきています。昔起こった悲惨なことを忘れてはいけないという声も聞きます。その一方で「昔とは事情が変わったから、昔のことにばかりこだわっているわけにはいかない」という声もあります。どちらの立場であっても、ひとたび戦いが起これば必ず傷つく人、命を失う人が出ることが分かっているので、何とかしてそれを避けたいと考えています。そしてもしものことがあれば、傷つき、失われる命の周りには家族がいて、悲しみや苦しみ、憎しみの輪が広がって行きます。
 「もしもこういうことが自分の身に起こったら、、、」「同じことが他の人にも起こったら、、、」こうしたことを思い測ることが出来る人が「憐み深い人」です。そしてこれが出来る人は幸せだとイエス様は私たちに約束しておられます。     
                            中遠教会 牧師 兵藤辰也

2021年7月2日
2021年『7月の聖句』
保護者の皆さんは最近勇気を出したことがありますか。もしもあるとしたら、どのような場面でしょうか。改めて考えてみると子育てというものはとても勇気の要ることです。というのは一つの、あるいは2,3、4つの命を育てていくために、前もってどのような結果が出て来るのか分からない中で決心しなければならないこと、幾つかの選択肢の中で1つを選ばなければならないこと、こういうことが次々と起こって来るからです。少し極端な言い方をしますけれど、子どもを産むか産まないか、こういうことから始まって、生まれてきた子どものために何を、どのようにするか、既に保護者の皆さんはこういうことを沢山やってきました。
何かを決めたり、選んだりする時に身近な人からの助言があったりもします。ネットや本などから情報を手に入れることもあるでしょう。それでも最後は親である皆さんが決心したり、選んだりしなければ事柄が前に進まなかったはずです。
 子育ては勇気が要ることです。だからこそ、皆さんのそば近くにいて皆さんを支えてくれる人が必要です。それが、イエス・キリストです。

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2021年6月4日
2021年『6月の聖句』
今年は随分は早く梅雨の時期に入りました。身の回りの草花を見ると春先に元気だったものと入れ替わるように今はアジサイが育ってきて花を咲かせています。
 私が住んでいる教会の隣には国分寺公園があります。そこでもあちこちにアジサイの花が見られます。特に誰かがお世話をしているわけでもありません。でも毎年必ず梅雨の時期になるとちゃんと花を咲かせています。アジサイには申し訳ないのですが、私がアジサイを見るのは梅雨の時期だけで、それ以外ははっきり言って見向きもしません。でも、ダメになったりせず、育っています。どうやって育っているのだろうと、改めて思わされます。子どもたちは身の回りで見られる生き物や植物に目をやったり、手で触れたりしています。そういう時はきっと「これなんだろう」とか「葉っぱは、触るとこんな感じがするんだ」とか色々なことを思っているのではないでしょうか。そんな子どもたちの姿が見える時には保護者の皆さんにも一緒に「なんだろうね」「どうしてかな」「なんでかな」と考えて下さるとよいと思います。子どもたちと心が通じ合うからです。

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2021年5月7日
2021年『5月の聖句』
「安心」が今回のテーマです。安心というのは読んで字のごとく、「心が安んじている」ということです。新年度が始まったばかりのころはどうしても落ち着かない気持ちになりやすいものですが、そこからだんだんと子どもたちの様子も落ち着いてくるのが今の時期です。どうしてそのようになるのか。子どもたちが「心安んじている」ようになるからでしょう。どこでそのような心持になるのか。自分のクラスの先生とのつながりが出来てくるからでしょう。「先生はいつもわたしの事を見ていてくれる。」「先生は私のことを分かってくれている」ことが子どもたちの中で確かなものになるにつれて「安心」が増えてきます。
友だち同士の関わりでもそのようなことが生まれてきます。
 その1つの現われは子どもたちと周りの人との間で「目が合う」ということだと思います。年度末の井桁先生の講演の中にもありました。人間は目と目を合わせるコミュニケーションをするように体の仕組みが出来ている、と。
 今月の聖句では病気の女性とイエス様との出会いが描かれます。そこでイエス様は女性と目を合わせて語り、「私はあなたを見ているよ」と伝えておられます。だから「安心していきなさい」とおっしゃいました。
今月も沢山子どもたちと目を合わせて頂けると子どもたちは安心して毎日が過ごせるようになります。

中遠教会牧師 兵藤辰也

2021年4月5日
2021年『4月の聖句』
4月1日は園生活の新しいスタートを切る日、新年度の始まりの日です。新しい先生や友だちとの「出会いの時」ですね。「出会い」と言えば、聖書には次のような話があります。
十字架に付けられた死なれたイエス様はお墓に納められました。そこに出かけて行った女性たちが見たのは空っぽのイエス様のお墓でした。代わりに天使がそこにおり、女性たちに言いました。「イエス様は復活なさったので、ここにはいません。あなたたちより先にガリラヤで待っています。」そこで女性たちがガリラヤへ向かうと、道の途中でイエス様が待っていて下さいました。女性たちはとても喜びました。イースターの出来事の1つです。
イースターはとても悲しい出来事の後に、思いがけず嬉しい出会いが起こる事を私たちに伝えています。今年度も悲喜こもごも様々な出来事が皆さんに起こるでしょう。そこから嬉しい出会いや素晴らしい出来事が皆さんの一人一人のところに起こるように神様が計画しておられる、このことを聖書は約束しています。

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2021年3月4日
2021年『3月の聖句』
新型コロナウイルス感染が日本国内で見つかって一年余りなります。保護者の皆さんはこの一年以前と後とでは生活の仕方が随分変わったのではないかと思います。また、もしかしたらものの考え方も変わっているかもしれません。
ふりかえってみると、この病気の感染拡大が始まったばかりの頃、私たちの思いは「この病気に罹らないように」と自分や自分の家族に感染が起こらないようにするのに必死だったように思います。それからしばらくして新型コロナウイルスの感染の仕方が明らかになってくるにつれ、「自分が感染しないように」だけでは感染拡大は防げず、「自分がウィルスを広げないように」気を付けることも大切である、ということが分かってきました。
イエス様の言葉を借りれば「自分を愛するように、自分の隣にいる人を愛する」この事を大切にしていくとコロナ禍での生き方がおのずと道が見えてくるように思います。新型コロナウイルス感染予防を軸にした生活はまだ続きます。窮屈に思えることもありますが、その中で私たちは人として大切なことを身に着けることが求められているように思う、今日この頃です。

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2021年2月8日
『2021年2月の聖句』
「絆」という言葉をご覧になって東日本大震災の事を思い起こされる方もあるかもしれません。10年前の話になりますが、あの頃「絆」という言葉が盛んに使われました。今は以前ほどではないように思います。あの時の絆はどこに行ってしまったのでしょう。
「絆」という文字はつながりとか何かを縛っておくものという意味を現します。親子の絆というものを考えてみるとそれは「つながり」であり、時には「縛り」にもなりうるものであるわけです。とは言え、私たちは普段の暮らしの中では「絆」というものをそれ程意識しないでしょう。けれども、これが一旦切れてしまった時にその大切さが分かってくる、見えてくるものです。「絆」はつなぎ続けるのにも苦労はします。保護者の皆さんもお子さんとの絆のために苦労することもあるでしょう。
この絆のために大切なことは特別なものではありません。子どもたちは家族と何気ない挨拶や言葉を交わすことなどの当たり前の暮らしを当たり前に大切にしていくことでつながれていきます。このようなことの積み重ねの先に皆さんの人としての、また家族としての「完成」が見えてくるのです。      

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2021年1月8日
2020年『1月の聖句』
2021年という新しい年を迎えられたことを嬉しく思います。保護者の皆さんにとって年末年始の数日はどのようなものだったでしょうか。新年を迎えることは何か新鮮な、これからのことへの期待が胸の内にあるものですね。ただ、今年はあまり晴れ晴れとした気持ちばかりではないかもしれません。新型コロナウイルスのことが常に頭にあり、否応なしに感染予防のことを気にしなければならないからです。これはたとえお正月であっても、続いているものです。その意味では不安定な思いを抱えている私たちです。正直な気持ちとしては、何か頼りになるものがないだろうかと探しあぐねているのかもしれません。
「神は愛です」と聖書は告げています。私たちは先月のクリスマスの時にこのことを確かめました。「神は愛です」を言い換えれば「神様は頼りになる方です」という意味です。これからの見通しを立てにくい事情の中に生きる私たちにとって、頼りとなるものがあることは幸せなことではないでしょうか。

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2020年12月11日
2020年『12月の聖句』
クリスマスは、マリアとヨセフという一組の夫婦に赤ちゃんが生まれることが軸になって進む物語です。つまり、これを読んでいる保護者の皆さんの物語です。時の権力者の命令によって身重のマリアとヨセフは旅をしなければならない、そして旅先で赤ちゃんが生まれる。そこへ、見ず知らずの羊飼いたちがお祝いにやって来る。「野原で羊の番をしていたら、天使のお告げを受け取った」と。しばらくすると、外国の3人の博士たちまで訪ねて来る。
「私たちは不思議な星に導かれて、ここまでやって来ました。」
マリアとヨセフは自分たちのことを言いふらしたわけではありません。むしろ「じぶんたちのことなど、誰も知ってはいない」と思っていました。でも神様はちゃんとご存知でした。そして思いがけない形でマリアとヨセフは助けられ、守られて少しずつ「家族」となっていきます。クリスマスは愛の物語です。

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2020年11月6日
2020年『11月の聖句』
「愛し合う」、恐らく保護者の皆さんの多くが結婚生活を始める時に願い、大切にしようと考えていたことではないでしょうか。それにしても「互いに愛し合う」、これってどんなことでしょう。「愛し合うこと」の1つの姿は「思いが通じ合う」というものです。とは言え、人の思いはなかなか分かるものではありません。
 「思いが通じ合う」ことのきっかけは「共通の体験をすること」です。同じ体験に基づく思いであれば、多少なりとも分かりやすくなるはずです。キリスト教保育の2019年4月号にこんな言葉がありました。「子どもに食べさせ、着させた親が、次にする最も大切なことは、子どもに本を読んでやること」
一緒に(絵)本を読む、ということは同じ体験をするということです。そこで子どもたちが感じることを親も感じる。逆に親が感じることを子どもが感じることも出来る。そこに確かなつながりがあることを確かめることが出来ます。子どもたちと一緒に本を読むことで同じ体験を重なる事は、愛し合うことの大切な鍵になってゆきます。

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2020年10月17日
2020年『10月の聖句』
乳幼児期に誰しもが触れる遊びの1つに「ごっこ遊び」があります。ままごともその1つです。皆さんもお家でなさることもあるかもしれません。我が家でもかつてそうでしたが、大抵子どもたちがお母さんやお父さんになり、親が子どもの役をやりました。子どもたちがご飯を作ってくれて「はい、どうぞ」「はい、ありがとう」(食べ終わったら)「ありがとう。ごちそうさまでした。」「どういたしまして。」何度やったか知れません。
例えば、こうした「ごっこ遊び」を通して、子どもたちは「ありがとう」と言われる立場にもなり、その嬉しさや満足感を得ます。同時に「ありがとう」という言葉が相手をどんなに喜ばせるものかを体験しています。「ありがとう」という感謝の気持ちを表す言葉は他の人を喜ばせ、自分自身も喜べるものです。
子育てや家事、仕事などで忙しい毎日を過ごしている保護者の皆さんが幸せを感じられる場面の1つに
「ありがとう」があるのではないかと思います。 

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2020年9月2日
2020年『9月の聖句』
幼児クラスくらいの年齢になると子どもたちには「友だち」と呼べる人が出てくるでしょう。乳児クラスの子どもであっても相性の合う人、合わない人と言う意味で好みの人はいるでしょう。
「友だち」と一口に言っても色々な友だちがあります。単純な知り合い、という友だち。一緒に何かをやり遂げた共通の体験を持っている友だち。他の人には話せないようなことでも話が出来る友だち。友だちの素晴らしいところは血がつながっているわけでもなく、仲良くしたからといってお金が儲かるわけでもなく、いわゆるメリットがなくても親身になれる、親身になってもらえる、そういう関係でしょう。そういう「友」を得ている人は幸せだと思います。保護者の皆さんはある意味で子どもたちの「友」であることを求められています。つまり子どもたちのあるがままの姿を認めて受け止め、どんなことがあっても一緒にいてくれるそういう「友」であることです。
本当の「友」がどのようなものかをイエス・キリストは身をもって私たちに現して下さっています。
中遠教会 牧師 兵藤辰也

2020年8月6日
2020年『8月の聖句』
「近くにいる人」で皆さんが思いつく人は誰でしょうか。多くの方が家族の中のどなたかを思いつかれるでしょうし、その中でもお子さんが浮かぶ方も少なくないでしょう。
子どもたちはいつでも誰かが近くにいてくれることを求めています。子どもたちが近くにいて欲しい人は自分の事を大好きな人でしょう。あるいは自分の事を大好きになって欲しい人に近くにいて欲しいのです。
大好きな人が近くにいてくれることがどんなに力になるかを子どもたちはよく知っています。皆さんが園にお迎えに行かれた時に子どもたちの嬉しい顔を思い浮かべて下さったらよいと思います。
 私たちにとっては毎日のように顔を合わせる人はたくさんの人がいます。そのうち一人でも二人でも力をもらえる関わりがあると私たちの毎日は幸せなものとなります。その中の一人のイエス・キリストがおられます。

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2020年7月3日
2020年『7月の聖句』
私はこども園・保育園に出向く時、可能な限り歩いてゆきます。歩くこと自体が好きだということもあるのですが、歩きでいくと当たり前の事ですが園へ段々と近づきます。近づくにつれてわずかに聞こえて来る子どもたちの声が段々と大きくなってきます。その声は大抵活気に満ちた声です。楽し気な声です。そうした声を聞いているだけでもこちらも楽しくなります。子どもの声って不思議です。
 子どもの声が活気に満ちているのは何故だろうと考えてみました。そして思い当たったのは喜んでいるから、楽しんでいるからではないでしょうか。決していいことづくめの毎日ではありません。集団生活の中では様々なことが起こります。でもそうした様々なことが子どもを通して活気と喜びとになっていきます。大人の目から見たら平凡なことであっても、その中に子どもたちが喜びや楽しみを見つけることが出来る、そんな力が子どもたちにはあるような気がします。子どもの側にいる大人が出来ることはそんな子どもたちの姿を喜ぶことではないかと思います。
中遠教会 牧師 兵藤辰也

2020年6月12日
2020年『6月の聖句』
人や物ごとについてどのような物差しを持っているか、「価値観」と言われるものがあります。私たちはそれぞれに何かしら自分なりの物差し、基準となるものを持っています。皆さんがご自分のお子さんを見る時にもそうした物差しが働きます。
 聖書にも人に対する物差しがあります。それが今月の聖句となっている言葉で表されています。「人にはそれぞれに賜物が与えられている」賜物というのは生まれつきその人に与えられている性格・資質・才能といったものです。簡単に言ってしまえば「人間必ず1つはいい所がある」です。悪いところだらけの人間はいないのです。その人だけに与えられているものがあるわけです。
 保護者の皆さんにとって子どもたちが「賜物」であるわけですが、その子どもたちにはそれぞれにその子しか持っていないものがある、その意味で1人1人が特別な存在なのです。私自身の反省も含めてですが子育て真っ最中の時にはつい「足らないところ」に目が行きやすく、「足りているところ」は当たり前のこととして見過ごしてしまうことがあります。「足りているところ」を見て、褒めて下さることが子育ての秘訣のような気がします。

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2020年5月11日
2020年『5月の聖句』
今月の聖句には「あなたの名前」が出てきます。皆さんそれぞれご自分の名前をお持ちです。それは誰
かが付けてくれたものでしょう。また、皆さんはご自分のお子さんに名前をつけられたでしょう。どんな
なことを願ったり、考えたりしてお子さんの名前をつけたでしょうか。そのことを考えて下さったらよい
のです。名前は大切なものです。「名は体を表す」と言われるとおり、名前はその人そのものなのです。
ということは、人の名前を大切にするということはその人を大切にすることになるわけです。
ところで神様が私たちの名前を呼んでくださると聖書は告げています。それは、神様がこの世の中に何
十億といる人の中から私の名前だけを読んで下さることを現わしています。
私たちは自分の名前、子どもやその他の家族の名前をどんな思いで呼んでいるでしょうか。
コロナウィルス流行の中、窮屈な思いをしていますが、そんな中で一人一人の名前の大切さを覚えなが
ら呼び合えるとよいなと思うのです。     

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2020年4月20日
2020年『4月の聖句』
新年度を迎えて色々なことが新しくなったり、切り替わったりするこの時期はこれから先のことへの期待を持たせてくれる雰囲気があります。もっとも、今年は新型コロナウイルスの流行があり、普段とは様子が違う新年度を迎えています。保護者の皆さんにとっても生活面や仕事の面でなにかしらの心配や不安を感じないで毎日を過ごすことは難しいかもしれませんね。
教会の暦では今、イエス様の御生涯がどのようなものであったか、特にその後半では苦しみや悩み、悲しみが積み重なった事を心に刻んでいます。どうしてイエス様がそのような目に遭われたのか、実は私たちの人としての苦しみや悲しみ、悩みなどをイエス様ご自身が引き受けるためにそうなってくださったのです。他人の苦しみや悲しみ、悩みが分かる事は愛していることの印です。自分の苦しみや悩みを分かってくれる人がいることに気付かされると、私たちは自分の大切さにも気づかされます。こうして自分の大切さに気付いた人は、他の人のことの大切さにも思いが開かれてゆくでしょう。
苦しみや悲しみ、悩みを通してでも私たちを愛して下さるイエス様の愛にこの一年も皆さんが守られ、導かれますように。
中遠教会 牧師 兵藤辰也