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今月の聖句

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2024年4月2日
2024年度「4月の聖句」
新年度を迎えました。今年は桜の花の開花がゆっくりなようで、入園・進級・入学の頃に満開の時期を迎えそうですね。
 今年のイースター(キリスト復活祭)は3月31日でしたが、園ではこれからイースターがお祝いされるかと思います。イースターはイエス・キリストが十字架に付けられて死なれ、3日目によみがえられた出来事をお祝いするものです。この出来事が現わしているものは、神様が私たちに新しいはじまりを与えて下さる、ということです。今までがどうであったのか、はもう問われることがありません。誰にでも新しいはじまり、あるいはやり直しの時が備えられているのです。その為であれば、神様は私たちにとって思いもよらないことだってなして下さいます。 
 子どもたちも、保護者の皆さんも新しい年度を迎えています。これは神様からの素晴らしい贈り物なのです。 
中遠教会 牧師 兵藤辰也

2024年3月5日
2023年度「3月の聖句」
2023年度の最後の1か月となりました。保護者の皆さんはこの1年の子どもたちの姿を振り返ってみる時期ではないでしょうか。先日、ある園の0歳児のクラスの中の様子を戸口の辺りから眺めていた時のことです。一人の子どもが私と目が合うと戸口まで近寄って来ました。この様子に気づいた他の2人が同じように戸口に並んで私の方を見ています。少し前なら同じようなことがあると、不安な様子で保育者の助けを求めるしぐさをして部屋の奥へ移動していましたが、この時は違いました。周りの事や周りの人に関心があるように見えました。クラスの先生への安心感に支えられてのことだと思います。これも「愛すること」の1つの現れです。
0歳児ばかりでなく、それぞれの子どもたちがこの1年色々なものへの関心が増えて、広くなっていることでしょう。これは子どもたちが家庭や園で周りの人たちから大切にされ、関心を持たれてきたことの実りであると思います。
中遠教会 牧師 兵藤辰也

2024年2月5日
2024年2月の聖句
子どもたちはいつもつながりを求めているのではないかと思います。そのつながりは 2通りあって、体を使って触れ合うなどの見える形でのつながり。もう1つが見えない形での心のつながりです。今回はどちらかと言うと見えない形でのつながりについて書きます。 
子どもたちは自分の感じている喜び、悲しみを身近な人が受け取ってくれることを嬉しく思います。「自分の気持ちがこの人に通じた!!」これはとても大きな喜びです。気持ちが通じたところでその人とのつながりが確かなものとされるからです。こうして確かめられるつながりによって子どもたちは支えられ、自分に自信を持てるようになり、他人への信頼感が養われていきます。
子どもたちの気持ちは絶えず移り変わっていくもので、そのすべてが通じなくても、一日の中で1つでもよいのです。自分の気持ちを汲み取ってもらえることは子どもたちにとって幸せな瞬間なのです。
中遠教会牧師 兵藤辰也

2024年1月9日
2024年「1月の聖句」
新しい年をどのように迎えられましたでしょうか。一年の始まりにあたって、この年をどのように過ごそうかと考えたり、家族の誰かと話をされた方もあるかもしれませんね。
今月の聖句の中でイエス・キリストは「わたしとあなたがたはつながっているのだ」という話をしておられます。木と枝との間につながりが続くところでこそ、ブドウの実がなる、と。つまり、つながりがとても大切なものということです。
今年一年がどのようなものになっていくのかを私たちは具体的には知りません。知らない中であっても皆さんの家庭の中でのつながりが大切であることは変わりないでしょう。この一年も皆さんと子どもたちとのつながりが確かなものであり続け、実を結ぶものとなりますようにお祈りいたします。
中遠教会 牧師 兵藤辰也

2023年12月4日
2023年「12月の聖句」
クリスマスが近づいてくるのを子どもたちは心待ちにしていることでしょう。聖書の中のクリスマスの物語は一人の男の子が生まれた、この子の名前は「イエス」となった、という話です。そしてイエス様がお生まれになった時、羊飼いや東の方からの博士たちや天使がやって来て、喜びました。勿論、マリアとヨセフも。
 この世の中に1つの命が生まれることには大きな喜びがあります。その知らせを聞いた人も皆喜びます。クリスマスの物語に触れていく中でご自分のお子さんが生まれた時のことを思い出す保護者の方もあるでしょう。もう1つ思い起こしていただきたいのは、保護者の皆さん自身が生まれた時にも大勢の人が喜んだ、ということです。
 私たちの人生は、喜びに包まれて始まったのです。このことを私たちに思い起こさせてくれるのが、クリスマスの物語です。この年のクリスマスの時を保護者の皆さんがお子さんを喜び、またご自分の事を喜んで迎えられますようにお祈りします。
中遠教会牧師 兵藤辰也

2023年11月6日
2023年「11月の聖句」
今月は園での収穫感謝の時が予定されているでしょう。今私たちが毎日口にしている物は人の手によって作られたものです。またそれらのものの作られ方も人の知恵や技術によって支えられているものです。こうしたもののお陰で私たちは「食べる物が手に入らないかもしれない」という心配をしなくても済んでいます。ですから「神様のお陰で、、、、」というのはピンとこないかもしれませんね。
 とは言え、私たち皆が今年は体験しました異常とも言える夏の暑さの厳しさと期間の長さの事を忘れることは出来ません。私も時々お店で野菜や魚、肉などを買いますけれど、値段の高さや作柄の変化を感じます。私たちにとってなくてならない食べ物は基本的に天候に大きく左右されるものであることを改めて考えさせられますし、それについては人の思う通りにはならない事でもあります。自然環境についても無関心ではいられません。
 毎日苦労はしながらも食べ物を口にできることで私たちは生きています。食べ物は、お金さえあれば何とでもなるものではない事を心に留めて、1日のうちどこかで「感謝」の思いを持つことが、私たちの幸せをより確かなものにするように思います。
中遠教会 牧師 兵藤辰也

2023年10月5日
2023年10月の聖句
羊という動物は基本的に集団を作って生きるものです。理由は、羊はほかの動物と争って勝てるようなものを備えていないからです。集団を作ることで敵から襲われることを防ぎます。リーダーが動いてその周りの羊が動き出すとやがて集団全体が同じ動きを取るようになります。集団から離れることは大変な危険につながるからです。
 羊とは違いますが、私たちもそれぞれに集団に属しています。子どもたちにとっては家族もそうですし、保育園・こども園での毎日も集団に属するものでしょう。保護者の皆さんも家庭や働きの場で何らかの仕方で集団を導く役割を負っていることでしょう。この役割は中々大変です。判断を誤ると集団があらぬ方向へ進んでしまうからです。そのために導く役割を負う人は孤独になります。
 そうした責任を負う人のためにイエス・キリストが導き手となってくださいます。上手くいくこと、上手くいかないこと、両方のことを含めてイエス様は私たちを導いて下さいます。
今月の皆さんの家庭やその他の集団がイエス・キリストの導きのもとにありますようにお祈りいたします。
中遠教会牧師 兵藤辰也

2023年9月6日
2023年『9月の聖句』
先日「24時間テレビ」を見ていましたら、静岡県のテレビ局が制作した、商店がない地域に軽トラで販売をしている人を取り上げている番組が流されていました。この人は、食料品などを売るだけでなく、自分で仕入れた品物で調理も行ってお惣菜などとしても販売していました。値段は、原価ギリギリか時には原価割れするものであるそうで、おまけに「朝から晩(というか夜遅く)まで」働く姿がありました。
 「なぜそこまでするのですか?」という番組スタッフの質問にこの人が答えていたのは「自分自身がひとり親の家庭で育った。食事はいつも子どもだけで食べていた。それはお腹は足りたけれど、心は寂しい食事だった。だから自分は、お腹も心も足りることを他人にやってあげたいと考えてこの商売をしている。」
 「人はパンだけで生きるものではない」イエス様の言葉も同じことを伝えてくれています。人が人らしく生きるためにはお腹も足りる必要がありますが、心が足りる必要もあるのです。子どもたちだけでなく、大人も同じではないでしょうか。心が足りる為に必要なものが見つかって、毎日の暮らしが喜びとなる9月となりますようにお祈りします。
中遠教会 牧師 兵藤辰也

2023年8月3日
2023年『8月の聖句』
保護者の皆さんは「虹」を見たことがあるだろうと思います。虹を目にすると、どんな気持ちになるか思い起こしてみてください。私自身はどういう気持ちになるかと言うとなんだか嬉しいというか、得をしたような気分になります。「ラッキー!!」「ハッピー!!」という気分です。とは言え虹は見たい時に見られるものではありません。それは雨上がりの時でないと見られないものです。
今月の聖句はそれまでの世界が破滅させられる程の大雨が降った、という「ノアの箱舟」の物語のおしまいに出て来るものです。あの時神様は虹を置いて「もう2度と私は世界を破滅させない」と自分に約束をします。
 「ノアの箱舟」の大雨はもしかしたら、私たちの苦しみや悩み、私たちの涙、どうしようもないことを現わしているのかもしれません。そしてそのような雨の後にしか見られない虹は、私たちが味わう人生の苦さや酸っぱさ、その先に素晴らしいもの、新しいものが待っているという神様からの約束の印です。子育てだけに限られませんが私たちは毎日悲喜こもごも味わいながら生きています。そういう私たちの1つ1つの体験を通して私たちを幸せに神が導いて下さるのです。
中遠教会牧師 兵藤辰也

2023年7月6日
2023年『7月の聖句』
保護者の皆さんは「朝のルーティーン」を持っておられるでしょうか。「ルーティーン」とは「こういう時には、必ずこうする」と決まっていることです。皆さんにとって朝の時間は子どもたちの支度とご自身の支度で大忙しであろうと思うのです。だから大袈裟なものでなくてよいのです。私が朝、目がさめると必ずやることは「今日は何曜日だっけ?」と確認することと、「神様、おはようございます。今日も一日よろしくお願いします。」とだけお祈りすることです。
 上にも書いた通り皆さん本当に朝は忙しいことでしょう。でもそうだからこそ、バタバタと始めるのでなく、2,3秒でよいので1つのことに思いを集中させることが意外と朝に落ち着きをもたらしてくれるのではないかな、と思うのです。何かに集中することで私たちの心が整うからです。心が整うと、頭の働きも整理されていくような気がします。
 気が向いたら、是非試してみてください
中遠教会牧師 兵藤辰也

2023年6月9日
2023年「6月の聖句」
詩編の作者は主なる神様が私たちを造ったと歌います。こういう話を聞くと「本当にそうなのか?」と思われる方もあるでしょう。確かに私たちが物を作るのと同じ具合に神様がこの世界とその中にあるものをお造りになったと考えるのは無理があるでしょう。ただ、詩編の作者が言いたいのはこういうことです。「この世界にあるものは皆素晴らしい!!」
 主なる神様は私たちを含む、この世界にあるすべてのものが生きていることそのものを意味のあるものと見てくださいます。だから、素晴らしく大切なものなのです。
私たちは日ごろついつい「出来る、出来ない」あるいは「見栄えが良いかどうか」という物差しを持ち出したがるものですが、神様は私たちの物差しとは随分違うもので私たちを計ってくださるのです。
中遠教会牧師 兵藤辰也

2023年5月8日
2023年『5月の聖句』
少年サムエルは、自分を呼ぶ不思議な声を聞きました。どうしたらよいのか分からなかったので、お師匠さんであるエリに尋ねるとサムエルを呼んでいるのは、神様であると教えてくれ、さらに返事の仕方を教えてくれました。その言葉が今回の聖句です。
サムエルは神様と語り合うことをしようと考えました。最初になすべきことは口を開いて話しだすことではなく、耳を開いて聞くことでした。保護者の皆さんは毎日心身共に忙しい中で子どもたちを育てています。ですからついご自分の言いたいことが最初になりやすいのではないでしょうか。子どもたちが幼かった頃の私はそうでした。今振り返ると分かるのですが、もっと大切なことは子どもが言いたいことを聞くことです。
これは体験的に言えることですが、相手の言い分にこちらが相手に耳を傾けた分だけ相手はこちらの言い分に耳を傾けてくれます。本当にそうだろうかと思われるかもしれません。でも聖書が私たちに教えてくれていることですから、やってみる価値はあると思います。
中遠教会牧師 兵藤辰也

2023年4月6日
2023年「4月の聖句」
新年度を迎えました。今年は桜の花の開花の時期が早めでもう満開の時期は過ぎているかもしれません。桜の花は単純に温かくなると花を開くのではないそうです。一度厳しい寒さを過ごし、その上で温かさに合わせてつぼみが膨らみ花が咲きます。
 子どもたちの成長もまた似たところがあります。単純に快適な環境を備えることで順調な育ちにつながるかと言えば必ずしもそうではありません。むしろ成長する前段階では足踏みをしているような、必ずしも成長が見て取れない時を経て、成長が見られることもあります。つまり私たちが体験するどんなことでも私たちの成長につながる可能性は秘められているのです。
 4月9日はイースター(キリスト復活祭)です。この出来事は、私たちがどんな場合でも確かなものに支えられているのであれば無駄な時間はないことを現わしています。
 園に関わる全ての人の新しい年度の1年の中で全てのことが「益」となりますようにお祈りします。
新年度を迎えました。今年は桜の花の開花の時期が早めでもう満開の時期は過ぎているかもしれません。桜の花は単純に温かくなると花を開くのではないそうです。一度厳しい寒さを過ごし、その上で温かさに合わせてつぼみが膨らみ花が咲きます。
 子どもたちの成長もまた似たところがあります。単純に快適な環境を備えることで順調な育ちにつながるかと言えば必ずしもそうではありません。むしろ成長する前段階では足踏みをしているような、必ずしも成長が見て取れない時を経て、成長が見られることもあります。つまり私たちが体験するどんなことでも私たちの成長につながる可能性は秘められているのです。
 4月9日はイースター(キリスト復活祭)です。この出来事は、私たちがどんな場合でも確かなものに支えられているのであれば無駄な時間はないことを現わしています。
 園に関わる全ての人の新しい年度の1年の中で全てのことが「益」となりますようにお祈りします。
新年度を迎えました。今年は桜の花の開花の時期が早めでもう満開の時期は過ぎているかもしれません。桜の花は単純に温かくなると花を開くのではないそうです。一度厳しい寒さを過ごし、その上で温かさに合わせてつぼみが膨らみ花が咲きます。
 子どもたちの成長もまた似たところがあります。単純に快適な環境を備えることで順調な育ちにつながるかと言えば必ずしもそうではありません。むしろ成長する前段階では足踏みをしているような、必ずしも成長が見て取れない時を経て、成長が見られることもあります。つまり私たちが体験するどんなことでも私たちの成長につながる可能性は秘められているのです。
 4月9日はイースター(キリスト復活祭)です。この出来事は、私たちがどんな場合でも確かなものに支えられているのであれば無駄な時間はないことを現わしています。
 園に関わる全ての人の新しい年度の1年の中で全てのことが「益」となりますようにお祈りします。
中遠教会 牧師 兵藤辰也

2023年3月2日
2022年度「3月の聖句」
先日出張のために電車に乗った時のことです。一組の親子が乗ってきました。2才くらいの子どもとお母さんです。二人の様子を見ながら我が家の子どもたちもかつてはあのくらいだったなぁと思っていると二人でおしゃべりが始まりました。「ねぇ、ママ、それなぁに?」
「これ?これはママの友だちにあげるのを作っているの。」「ともだち?」「そう、ママの友だち」「あげるの?」「そう、あげるの」「なにをあげるの?」「これをあげるの」「そうなんだ」「そうよ」
 お母さんの言葉を聞いて、こどもがオウム返しをするような会話を耳にしながら改めて気づかされました。子どもは親をはじめとして周りの人から受け取ったものをまた親や周りの人に返していくものなのだ、と。子どもの育ちとはそういうものだと。
 こう考えると主イエスが「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と教えて下さった理由が分かるような気がします。保護者の皆さんは今子どもたちを愛しながら毎日精一杯子育て、仕事、家事に携っていますけれど、それらは必ず皆さんのところに返って来るものだと。そうすることで愛が豊かな家庭になるのだと。
中遠教会 牧師 兵藤辰也

2023年2月10日
2023年『2月の聖句』
先日我が家の子どもが「バケモノの子」というアニメ映画を見ていました。私も脇から眺めました。ストーリの中に小さなエピソードが幾つかありましたが、その1つが「私は誰?私は愛されている?」という疑問が主人公の中にありました。この疑問は登場人物たちの中にそれぞれの形で潜んでおり、それぞれがこの事に人知れず悩んでいるのです。こんな疑問とまともに向き合う事は難しいので、普段は心の奥底にしまってあるのです。
 映画の中で「私は愛されている?」という疑問にまともに向き合った主人公がまず思いつく事、それは「誰も私を愛していない」という思いでした。この思いが主人公を破滅へと追い立てようとしますが、その瞬間にもう一度自分のこれまでの人生を振り返る思いも湧いてきます。そして自分にも自分を愛してくれる人がいることに目が開かれ、破滅に陥らずに済む、こんな場面があります。
 聖書を読んでいくと「愛がありますか」と真剣に問いただされます。更に聖書は「愛されるはずのない私」がいることそして「そんな私をさえ愛してくれる人がいる。ここに愛がある。」これら2つのことに気づかせてくれるのです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也

2023年1月10日
2023年「1月の聖句」
新しい年をどのようにお迎えになられたでしょうか。年末、お正月と家族で一緒に過ごされる時間が普段よりは多かった方もあろうかと思います。家族で一緒に過ごすといつもより嬉しいことも、煩わしく思うこともどちらも多くなるのではないでしょうか。
 嬉しさも煩わしさもそれぞれ私たちが人として感じる気持ちです。気持ちは私たちの内側にあるものですが、同時に私たちの外側へ向かうものです。外側というのは具体的には他の人、つまり家族であるでしょう。自分の気持ちが夫婦や家族の間で通じることは、私たちを幸せにしてくれるもののように思います。そんなことは当たり前の事と思われる方もあるかも知れません。でも当たり前であるはずのことが出来なくなってしまった時の悲しさを考えると、気持ちが通じることは小さな事とは言えないと思うのです。私たちの人生を左右する事と言ってもよいかもしれません。
2023年の新しい年が皆さんにとって「気持ちが通じ合う喜び」が生まれて、幸せなものとなりますようにお祈りいたします。
中遠協会牧師 兵藤 辰也

2022年12月5日
2022年『12月の聖句』
 クリスマスの物語に記されている出来事は神様による出来事です。ですから、この物語に登場するマリアやヨセフ、羊飼い、博士たちにとっては思いもよらないことを体験させられます。そこでは驚きや不安、戸惑いなどがこれらの人々を襲ったに違いないと私は思うのです。そうでありながらも神様に助けられて少しずつ前に進んでいきながらクリスマスを喜べる人になっていきました。つまり成長させられたのです。
 子育てにも通じるところがあると私は思います。子どもの親となるのに相応しい人のもとに赤ちゃんが生まれるわけではありません。生まれて来た赤ちゃんを不十分ながらも受け入れて、苦労しながら一緒に生きていく中で赤ちゃんは成長するし、それに伴って親も親らしく成長させられるのです。そこには思いがけない事だって起こるに違いないのです。そうしたことも体験し、乗り越えて来る分だけ皆さんは成長するのです。
 子どもが成長するために親が親としての役割を果たすことは大切です。けれどもそういうことが果たされるためには見える形で、見えない形で皆さんを助ける力が働いていることも忘れないでいただけたら嬉しいです。
中遠教会牧師 兵藤辰也

2022年11月11日
2022年『11月の聖句』
 子育てをしている間に何度もぶつかることは「自分たちの子育てはこれでよいのだろうか」という不安です。我が家の子どもたちは既に二人は成人ですし、3人目は高校生ですが、今もこうした不安とぶつかり、悩む時があります。
先日ある園の子育て支援センターで働いている方と話をしました。そこを訪れる多くの保護者が「これでいいのか」という子育ての不安を持っているようだ、と話して下さいました。さらに話を続けたところ結局「子育てには1つの正解しかないと考えなくてもよい」というところにたどり着きました。
 そうであるからこそ、皆さんのそばにいる子どもたちの様子を「よく見る」こと「よく聞く」こと「よく触れる」ことで子どもたちが何を求めているかを探っていくことが大切な気がします。こうすることで私たちは子どもたちの「隣人」に近づけるように思うのです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也

2022年10月8日
2022年『10月の聖句』
先日テレビを見ていましたら日本で働く人の一年間の収入の平均が取り上げられていました。20年前は約500万円、最近では400万円程である、つまり100万円程平均が下がっているという分析を見ました。あくまで平均であり、統計上の数字ではありますが、全体的な傾向としては働く人の賃金は容易には増えないということのようです。
 私たちは皆「豊かさ」を追い求めながら働いて、暮らしを成り立たせています。これは大事なことです。その一方で、もしも容易に収入が増えないのであるとしたら「豊かさ」の中身を点検しても良いような気がします。「豊かさ」は私たちの「幸せ」と深く結びついているものですから。
子どもたちの姿がヒントになるかもしれません。子どもたちは何を「幸せ」と受け止めているでしょうか。その根底にはお母さん、お父さんとのつながりがあるのではないでしょうか。そこに愛があること、信頼があること、です。お金も「豊かさ」の1つです。そしてまた「愛」や「信頼」もまた「豊かさ」を現わすものです。
中遠協会牧師 兵藤辰也

2022年9月7日
「2022年『9月の聖句』」
「あるものは百倍」というのはイエス様が神様のことをお話しされた時の言葉です。1粒の麦の種が百倍になったということです。でもこれは常識的にはあり得ない数字なのだそうです。でもそれほどに思いがけない嬉しいことが私たちの身に起こるよ、というメッセージです。例えば1万円が百倍になって皆さんの手元にやって来たら、きっと思いもよらない嬉しいことであるに違いありません。
子育ては大抵理屈通りにはいきません。それこそ「常識」と言われるものにぴったり当てはまることは少なく、親としては思うに任せないことが多いのです。ところが、そうした中で思いがけず子どもの成長を見たり、子どもの内面に触れる出会いが起こります。これは親だからこそ分かる喜びです。その喜びが更なる子育てへの力となってくれるのです。
大切なことは、今の時の先に喜びが待っていると信じることです。イエス様は「そう信じてよいのだ」と私たちに約束して下さっているのです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也

2022年8月1日
「2022年『8月の聖句』」
我が家の子どもたちのうち、2人は離れた場所で暮らしているのですが、帰って来た時には母親(私の妻)とはよくおしゃべりをしています。その中で自分たちが子どもの頃の事が話題になるようです。こういうことがあった時に自分がどんな気持だったかを。
 その会話を小耳にはさみながら私は思うのは「親が感じていることと子どもが感じていることは違うものだな」ということです。親としてはそれなりにやれた、と思っていることが子どもにとってはそれ程でもなかったり、逆に親としては失敗したと思っていることを子どもは嫌なことだとは思っていなかったり、、、。勿論両者が一致する場合もあります。
子育ての中ではポジティブな体験もするし、ネガティブな体験もします。こうしたもろもろの体験は親が感じていることだけが全てではない、と思われます。その点からすると、どんな体験であっても決して子どもたちにとって無駄な体験はないのだと思います。だから、どんなことにも感謝をすることが出来るのだろうと思います。
中遠教会 牧師 兵藤辰也

2022年7月1日
「2022年『7月の聖句』」
ほめ歌を歌う、という言葉が今月の聖句になります。歌を歌うということで書きますと、私は家事をしながら鼻歌を歌います。鼻歌というのは歌おうと思って歌うと言うよりは気が付くと歌っているというのが相応しいでしょう。つまり、心の動きが体に現れて歌になっているということです。鼻歌が出るのは嬉しい時もそうですが、自分の気持ちが塞いでいる時にも出てきます。こういう時は自分を励まそうと言う気持ちで出て来るものではないかと考えています。
私たちの心と体は深くつながっていて、お互いに働きかけ合っているようです。歌が自然に出て来る、これは自分の気持ちが外に向かって出ていることでもあります。子どもたちの姿を見てもやはりその時々の気持ちが体に現れています。これはとても大切なことです。何故なら子どもたちは「自分の気持ちを外へ出してもいいのだ」と安心感、信頼感があればこそ、そのように出来るからです。 
これから迎える夏の季節、子どもたちの心と体とが生き生きとする体験が出来るとよいですね。
中遠教会 牧師 兵藤辰也

2022年6月2日
2022年『6月の聖句』
 わたしは時々探し物をします。しばらく前に自分の財布を捜しました。部屋の中をあちこち探しまわりましたが見つけられず困っていると妻が「最後に財布を使ったのはいつ?」
「それはどこで使ったの?」「使い終わった後、どこに置いたか思い出せる?」と幾つか尋ねてくれて、その言葉を頼りに思い出していくと財布は見つかりました。嬉しかったですし、ホッとしました。
 探し物をしてなかなか見つからないと焦ります。また探し物が見つからないという焦りから行き詰まってしまいます。そのうちに「もうだめかも」と諦めの気持ちも出てきます。そんな時に誰が声を掛けてくれると事柄が進んで行き詰まりや諦めから抜け出ることが出来ます。今月のイエスさまの言葉は毎日の暮らしの中で心がふさぐこともある私たちを助けてくれるものです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也

2022年5月9日
「2022年『5月の聖句』」
保護者の皆さんが今子どもさんを預けている園を選ばれた理由は何でしょうか。色々な事が挙げられます。保育内容、立地条件、あるいは口コミを頼りにされたところもあるかもしれません。とにかく、子どもさんの育ちにプラスになることを考えて選んでおられるに違いありません。何故そうするのでしょう。それは子どもたちは自分だけではどの園が良いのかを選ぶことは難しいからです。保護者の皆さんは子どもたちの代わりに、子どもたちが幸せに毎日を過ごせる園を選んでおられるわけです。
聖隷福祉事業団の保育園・こども園はキリスト教保育をしています。ここに立って園として子どもたちが毎日を幸せに過ごす為に大切なことを実践しているわけです。子どもたちにとっては家庭でも愛され、園でも愛されることが一番大切です。何故、愛なのか。このことをイエス様が私たちを愛して下さる事実を通して、人間にとって愛がどんなものかを私たちに教えて下さっていると私たちは信じているからです。だから、イエス様は「わたしのところに来させなさい」とおっしゃっているのです。
中遠教会牧師 兵藤辰也

2022年4月7日
2022年「4月の聖句」
新年度・新入園などの季節を迎えました。この季節は特別なことがなくても嬉しさを感じることの多い時期です。同時に保護者の皆さんにとっては子どもたちやご自身が新しい環境での生活に入っていくという意味では慌ただしかったり、多少の不安がある時かもしれませんね。
 教会では今イエス・キリストの生涯を覚える期間となっています。とりわけ、イエス様が悩まれ、苦しまれた時のことをおぼえています。何故そんなことをするのか。イエス様は私たちを愛しておられるからこそ、悩んでくださったし、苦しんでくださったのです。
 先日保育園・こども園職員対象の年度末研修会に出席して、「共感」が保育の中で大切だと学びました。そして共感してくれる相手を子どもは信頼するものだと。つまり、私たちの思いを分かってくれる人、受け留めてくれる人こそ信じるに値する者である、ということでしょう。
そうは言いながらも、他人の気持ちを分かり、受け留めることほど難しいことはありません。イエス様はこの難しいことしてくださいました。その為に、苦しみと悩みを負うことを厭われなかったのです。 愛することと苦しみ・悩みとは深く結びついているのです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也

2022年3月14日
2022年『3月の聖句』
2021年度最後のひと月を迎えました。保護者の皆さんも年度の区切りを迎えて慌ただしくも、一年間のお子さんの成長の姿を振り返られる時もあろうかと思います。
 この一年間、子どもたちも保護者の皆さんも色々な体験をしてこられたことでしょう。思い起こしてみると悲喜こもごもであろうと思います。新型コロナウィルス感染への対応では親子ともども大変な面があったかと思います。そうした様々な時を一緒に過ごして来られたことそのものがとても大切なものであると私は考えます。良し悪しは別としてもそのお蔭で親子一緒に過ごす機会も多くなったでしょうし、多くなった分嬉しい発見もあったでしょうし、辛く感じられたこともあったでしょう。そうした様々な体験を味わいつつ成長してきた一年間は貴重です。なぜなら「一緒である」ことは愛することの始まりだからです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也

2022年2月8日
2022年『2月の聖句』
今月のテーマは「あいさつ」です。保護者の皆さんも色々な場面で挨拶をされることがあるでしょう。私自身子どもの頃に周りの人からあいさつを心がけるように言われてきた覚えがあります。あいさつの大切さは何でしょうか。私なりに考えてみました。あいさつは、他の人との関わりを作るためのきっかけになります。あいさつからは「わたしはあなたに関心を払っています。わたしはあなたと関わりたいです。」こんなメッセージが発信されると考えられます。
 人は誰でも自分に関心を払ってくれる人のことをいい加減に扱うことが出来ません。そして周りの人から自分がいい加減に扱われることも望んではいません。だから、あいさつすることは「他人からしてもらいたいことを、まずは他人にしている」ことだと言えます。
 保護者の皆さんのご家庭で親子でのあいさつをしておられるでしょう。これは小さなことかもしれませんが、家庭の中でお互いを一人の人間として認め合っている印なのです。

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2022年1月7日
2022年『1月の聖句』
新年をどのようにお迎えでしょうか。今年の冬は例年よりも寒さが厳しい天候ですね。そんな中で窓ガラス越しの日の光の温かさが有難く感じられます。今月は「元気」がテーマです。私が子どもの頃は「子どもは風の子」と言われて真冬でも外で遊ぶのが当たり前でした。今はあまりそういう姿を見かけなくなっています。とは言え、園庭では子どもたちが過ごしている姿を見ることが出来、やはり子どもたちは元気だなと思わされます。子どもたちのあの元気はどこから来るのでしょう。
 寒さの中では私たちはどうしても縮こまりがちです。そんな中でも温かさを身に受ける時があるとのびのびとしますし、なんだかやる気も出てきます。これは身体だけに限った話ではないように思います。身体と共に心にも温かさを感じられると元気づくように思います。その多くは家庭や園での人間関係だと言ってもよいでしょう。温かさは、身近な人とのつながりの中で「私は受け入れられている」「私の事を分かってくれている」という体験をすることです。ですから、皆さんを受け入れているイエス様がおっしゃっています。「子よ、元気を出しなさい。」

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2021年12月3日
『2021年12月の聖句』
アドベントの期間に入り、子どもたちはクリスマスを楽しみに待っていることでしょう。
聖書にあるクリスマスの物語を読んでいくと、どういうわけか読む人が自分自身の原点に帰らされる思いがします。もしかしたらそれはマリアとヨセフが「それぞれ自分の生まれた町」であるベツレヘムに出掛けたからかもしれません。またその町で天使が知らせてくれたとおり赤ちゃんが生まれたという姿を見るからかもしれません。
 自分の原点に帰るということは、皆さんの人生が、皆さんの命がどこから始まっているのか?という問いかけとして受け止めることが出来るでしょう。この問いかけに対して聖書が答えているのは「愛」です。そこには親の愛もあります。そして神の愛もあります。私たち一人一人の人生は「愛」から始まっているのです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也

2021年11月15日
2021年『11月の聖句』
子育てに関わることわざの1つに「這えば立て、立てば歩けの親心」というものがあります。人の子の親は子どもに期待を寄せるものだ、というのがそもそもの意味です。保護者の皆さんも子どもに対する、子育てに対する期待というものを持っておられることでしょう。これが励みになることもあります。同時に、その期待があるためにことわざで言われるように「次の段階へ、次の段階へ」と急き立ててしまうことも起こります。
 「私の恵みはあなたに十分である。」この言葉は「今、そこにあるそのままの『あなた』の姿が十分なものですよ」というメッセージを持っています。大人は子どもよりも先の見通しが立つものですから、どうしても子どもの姿から「その先」を見てしまいがちです。でも、「今そこにある」子どもの姿を認めて受け入れていくところからこそ「その先」が開かれていくように思うのです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也

2021年10月6日
2021年『10月の聖句』
今回は「ともだちひきとりや」という絵本を紹介します。イノシシとイタチはとても仲良しでした。ただ、イノシシが威張りすぎるのがちょっぴり残念。ちょっとしたことをきっかけに仲が悪くなってしまいます。そこでキツネとオオカミが「ともだちひきとりや」に扮して登場。イノシシは早速イタチを引き取ってもらいます。気が付くとイノシシは一人ぼっち、向こうの方ではキツネとオオカミとイタチが仲良く遊んでいます。一人に耐えきれなくなったイノシシはもう一度「ともだちひきとりや」を呼んで、今度はイノシシ(つまり自分)を引き取ってもらう。こんなお話です。
 私たち一人一人が「そこにいる」ということがどれだけ大切で、なくてはならないものであるか、ということに気付かされる絵本です。保護者の皆さんも忙しい毎日ですが、家庭の中で一人一人がそこにいるという当たり前な事の素晴らしさを味わって下さると、その度に皆さんの毎日は幸せなものになると思います。

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2021年9月10日
2021年「9月の聖句」
教会での結婚式では結婚する二人が誓いをする場面があります。「私は健やかな時も、病む時もこの人を愛することを誓います。」保護者の皆さんも既に味わっていることですけれど、結婚生活・家庭生活は健やかで平らな道を歩く時ばかりではなく、険しい坂を登っていくような苦しみ、谷を下るような不安も起こります。そうした中で夫婦もお互いに振る舞いが変わったり、言葉遣いが変わったりということが起こります。私たちを取り巻く事情が移り変わっていくように、皆さん自身も変わっているのです。そして子どもたちも。
 その一方でいつも変わらないものがあります。それは私たちがそれぞれに「自分らしく生きていきたい」と思っている事です。言い換えると「愛されたい」です。「愛」は自分で自分に与えることは出来ませんけれど、他の人に与えることは出来ます。誰かが「その人らしく生きるため」の応援であれば、私たちにも十分出来るという不思議なものです。
 今私たちはとても窮屈な毎日を過ごしています。その毎日の中でイエス様は私たちを愛して下さっています。だからこそ、私たちも互いに愛し合うようにと導かれているのです。
中遠教会 牧師 兵藤辰也

2021年8月6日
「2021年『8月の聖句』
今月15日は終戦記念日、太平洋戦争が終わったことを記念する日です。76年前のことになります。私自身もそうですが、直接その頃のことを体験した人も少なくなってきています。昔起こった悲惨なことを忘れてはいけないという声も聞きます。その一方で「昔とは事情が変わったから、昔のことにばかりこだわっているわけにはいかない」という声もあります。どちらの立場であっても、ひとたび戦いが起これば必ず傷つく人、命を失う人が出ることが分かっているので、何とかしてそれを避けたいと考えています。そしてもしものことがあれば、傷つき、失われる命の周りには家族がいて、悲しみや苦しみ、憎しみの輪が広がって行きます。
 「もしもこういうことが自分の身に起こったら、、、」「同じことが他の人にも起こったら、、、」こうしたことを思い測ることが出来る人が「憐み深い人」です。そしてこれが出来る人は幸せだとイエス様は私たちに約束しておられます。     
                            中遠教会 牧師 兵藤辰也

2021年7月2日
2021年『7月の聖句』
保護者の皆さんは最近勇気を出したことがありますか。もしもあるとしたら、どのような場面でしょうか。改めて考えてみると子育てというものはとても勇気の要ることです。というのは一つの、あるいは2,3、4つの命を育てていくために、前もってどのような結果が出て来るのか分からない中で決心しなければならないこと、幾つかの選択肢の中で1つを選ばなければならないこと、こういうことが次々と起こって来るからです。少し極端な言い方をしますけれど、子どもを産むか産まないか、こういうことから始まって、生まれてきた子どものために何を、どのようにするか、既に保護者の皆さんはこういうことを沢山やってきました。
何かを決めたり、選んだりする時に身近な人からの助言があったりもします。ネットや本などから情報を手に入れることもあるでしょう。それでも最後は親である皆さんが決心したり、選んだりしなければ事柄が前に進まなかったはずです。
 子育ては勇気が要ることです。だからこそ、皆さんのそば近くにいて皆さんを支えてくれる人が必要です。それが、イエス・キリストです。

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2021年6月4日
2021年『6月の聖句』
今年は随分は早く梅雨の時期に入りました。身の回りの草花を見ると春先に元気だったものと入れ替わるように今はアジサイが育ってきて花を咲かせています。
 私が住んでいる教会の隣には国分寺公園があります。そこでもあちこちにアジサイの花が見られます。特に誰かがお世話をしているわけでもありません。でも毎年必ず梅雨の時期になるとちゃんと花を咲かせています。アジサイには申し訳ないのですが、私がアジサイを見るのは梅雨の時期だけで、それ以外ははっきり言って見向きもしません。でも、ダメになったりせず、育っています。どうやって育っているのだろうと、改めて思わされます。子どもたちは身の回りで見られる生き物や植物に目をやったり、手で触れたりしています。そういう時はきっと「これなんだろう」とか「葉っぱは、触るとこんな感じがするんだ」とか色々なことを思っているのではないでしょうか。そんな子どもたちの姿が見える時には保護者の皆さんにも一緒に「なんだろうね」「どうしてかな」「なんでかな」と考えて下さるとよいと思います。子どもたちと心が通じ合うからです。

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2021年5月7日
2021年『5月の聖句』
「安心」が今回のテーマです。安心というのは読んで字のごとく、「心が安んじている」ということです。新年度が始まったばかりのころはどうしても落ち着かない気持ちになりやすいものですが、そこからだんだんと子どもたちの様子も落ち着いてくるのが今の時期です。どうしてそのようになるのか。子どもたちが「心安んじている」ようになるからでしょう。どこでそのような心持になるのか。自分のクラスの先生とのつながりが出来てくるからでしょう。「先生はいつもわたしの事を見ていてくれる。」「先生は私のことを分かってくれている」ことが子どもたちの中で確かなものになるにつれて「安心」が増えてきます。
友だち同士の関わりでもそのようなことが生まれてきます。
 その1つの現われは子どもたちと周りの人との間で「目が合う」ということだと思います。年度末の井桁先生の講演の中にもありました。人間は目と目を合わせるコミュニケーションをするように体の仕組みが出来ている、と。
 今月の聖句では病気の女性とイエス様との出会いが描かれます。そこでイエス様は女性と目を合わせて語り、「私はあなたを見ているよ」と伝えておられます。だから「安心していきなさい」とおっしゃいました。
今月も沢山子どもたちと目を合わせて頂けると子どもたちは安心して毎日が過ごせるようになります。

中遠教会牧師 兵藤辰也

2021年4月5日
2021年『4月の聖句』
4月1日は園生活の新しいスタートを切る日、新年度の始まりの日です。新しい先生や友だちとの「出会いの時」ですね。「出会い」と言えば、聖書には次のような話があります。
十字架に付けられた死なれたイエス様はお墓に納められました。そこに出かけて行った女性たちが見たのは空っぽのイエス様のお墓でした。代わりに天使がそこにおり、女性たちに言いました。「イエス様は復活なさったので、ここにはいません。あなたたちより先にガリラヤで待っています。」そこで女性たちがガリラヤへ向かうと、道の途中でイエス様が待っていて下さいました。女性たちはとても喜びました。イースターの出来事の1つです。
イースターはとても悲しい出来事の後に、思いがけず嬉しい出会いが起こる事を私たちに伝えています。今年度も悲喜こもごも様々な出来事が皆さんに起こるでしょう。そこから嬉しい出会いや素晴らしい出来事が皆さんの一人一人のところに起こるように神様が計画しておられる、このことを聖書は約束しています。

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2021年3月4日
2021年『3月の聖句』
新型コロナウイルス感染が日本国内で見つかって一年余りなります。保護者の皆さんはこの一年以前と後とでは生活の仕方が随分変わったのではないかと思います。また、もしかしたらものの考え方も変わっているかもしれません。
ふりかえってみると、この病気の感染拡大が始まったばかりの頃、私たちの思いは「この病気に罹らないように」と自分や自分の家族に感染が起こらないようにするのに必死だったように思います。それからしばらくして新型コロナウイルスの感染の仕方が明らかになってくるにつれ、「自分が感染しないように」だけでは感染拡大は防げず、「自分がウィルスを広げないように」気を付けることも大切である、ということが分かってきました。
イエス様の言葉を借りれば「自分を愛するように、自分の隣にいる人を愛する」この事を大切にしていくとコロナ禍での生き方がおのずと道が見えてくるように思います。新型コロナウイルス感染予防を軸にした生活はまだ続きます。窮屈に思えることもありますが、その中で私たちは人として大切なことを身に着けることが求められているように思う、今日この頃です。

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2021年2月8日
『2021年2月の聖句』
「絆」という言葉をご覧になって東日本大震災の事を思い起こされる方もあるかもしれません。10年前の話になりますが、あの頃「絆」という言葉が盛んに使われました。今は以前ほどではないように思います。あの時の絆はどこに行ってしまったのでしょう。
「絆」という文字はつながりとか何かを縛っておくものという意味を現します。親子の絆というものを考えてみるとそれは「つながり」であり、時には「縛り」にもなりうるものであるわけです。とは言え、私たちは普段の暮らしの中では「絆」というものをそれ程意識しないでしょう。けれども、これが一旦切れてしまった時にその大切さが分かってくる、見えてくるものです。「絆」はつなぎ続けるのにも苦労はします。保護者の皆さんもお子さんとの絆のために苦労することもあるでしょう。
この絆のために大切なことは特別なものではありません。子どもたちは家族と何気ない挨拶や言葉を交わすことなどの当たり前の暮らしを当たり前に大切にしていくことでつながれていきます。このようなことの積み重ねの先に皆さんの人としての、また家族としての「完成」が見えてくるのです。      

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2021年1月8日
2020年『1月の聖句』
2021年という新しい年を迎えられたことを嬉しく思います。保護者の皆さんにとって年末年始の数日はどのようなものだったでしょうか。新年を迎えることは何か新鮮な、これからのことへの期待が胸の内にあるものですね。ただ、今年はあまり晴れ晴れとした気持ちばかりではないかもしれません。新型コロナウイルスのことが常に頭にあり、否応なしに感染予防のことを気にしなければならないからです。これはたとえお正月であっても、続いているものです。その意味では不安定な思いを抱えている私たちです。正直な気持ちとしては、何か頼りになるものがないだろうかと探しあぐねているのかもしれません。
「神は愛です」と聖書は告げています。私たちは先月のクリスマスの時にこのことを確かめました。「神は愛です」を言い換えれば「神様は頼りになる方です」という意味です。これからの見通しを立てにくい事情の中に生きる私たちにとって、頼りとなるものがあることは幸せなことではないでしょうか。

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2020年12月11日
2020年『12月の聖句』
クリスマスは、マリアとヨセフという一組の夫婦に赤ちゃんが生まれることが軸になって進む物語です。つまり、これを読んでいる保護者の皆さんの物語です。時の権力者の命令によって身重のマリアとヨセフは旅をしなければならない、そして旅先で赤ちゃんが生まれる。そこへ、見ず知らずの羊飼いたちがお祝いにやって来る。「野原で羊の番をしていたら、天使のお告げを受け取った」と。しばらくすると、外国の3人の博士たちまで訪ねて来る。
「私たちは不思議な星に導かれて、ここまでやって来ました。」
マリアとヨセフは自分たちのことを言いふらしたわけではありません。むしろ「じぶんたちのことなど、誰も知ってはいない」と思っていました。でも神様はちゃんとご存知でした。そして思いがけない形でマリアとヨセフは助けられ、守られて少しずつ「家族」となっていきます。クリスマスは愛の物語です。

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2020年11月6日
2020年『11月の聖句』
「愛し合う」、恐らく保護者の皆さんの多くが結婚生活を始める時に願い、大切にしようと考えていたことではないでしょうか。それにしても「互いに愛し合う」、これってどんなことでしょう。「愛し合うこと」の1つの姿は「思いが通じ合う」というものです。とは言え、人の思いはなかなか分かるものではありません。
 「思いが通じ合う」ことのきっかけは「共通の体験をすること」です。同じ体験に基づく思いであれば、多少なりとも分かりやすくなるはずです。キリスト教保育の2019年4月号にこんな言葉がありました。「子どもに食べさせ、着させた親が、次にする最も大切なことは、子どもに本を読んでやること」
一緒に(絵)本を読む、ということは同じ体験をするということです。そこで子どもたちが感じることを親も感じる。逆に親が感じることを子どもが感じることも出来る。そこに確かなつながりがあることを確かめることが出来ます。子どもたちと一緒に本を読むことで同じ体験を重なる事は、愛し合うことの大切な鍵になってゆきます。

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2020年10月17日
2020年『10月の聖句』
乳幼児期に誰しもが触れる遊びの1つに「ごっこ遊び」があります。ままごともその1つです。皆さんもお家でなさることもあるかもしれません。我が家でもかつてそうでしたが、大抵子どもたちがお母さんやお父さんになり、親が子どもの役をやりました。子どもたちがご飯を作ってくれて「はい、どうぞ」「はい、ありがとう」(食べ終わったら)「ありがとう。ごちそうさまでした。」「どういたしまして。」何度やったか知れません。
例えば、こうした「ごっこ遊び」を通して、子どもたちは「ありがとう」と言われる立場にもなり、その嬉しさや満足感を得ます。同時に「ありがとう」という言葉が相手をどんなに喜ばせるものかを体験しています。「ありがとう」という感謝の気持ちを表す言葉は他の人を喜ばせ、自分自身も喜べるものです。
子育てや家事、仕事などで忙しい毎日を過ごしている保護者の皆さんが幸せを感じられる場面の1つに
「ありがとう」があるのではないかと思います。 

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2020年9月2日
2020年『9月の聖句』
幼児クラスくらいの年齢になると子どもたちには「友だち」と呼べる人が出てくるでしょう。乳児クラスの子どもであっても相性の合う人、合わない人と言う意味で好みの人はいるでしょう。
「友だち」と一口に言っても色々な友だちがあります。単純な知り合い、という友だち。一緒に何かをやり遂げた共通の体験を持っている友だち。他の人には話せないようなことでも話が出来る友だち。友だちの素晴らしいところは血がつながっているわけでもなく、仲良くしたからといってお金が儲かるわけでもなく、いわゆるメリットがなくても親身になれる、親身になってもらえる、そういう関係でしょう。そういう「友」を得ている人は幸せだと思います。保護者の皆さんはある意味で子どもたちの「友」であることを求められています。つまり子どもたちのあるがままの姿を認めて受け止め、どんなことがあっても一緒にいてくれるそういう「友」であることです。
本当の「友」がどのようなものかをイエス・キリストは身をもって私たちに現して下さっています。
中遠教会 牧師 兵藤辰也

2020年8月6日
2020年『8月の聖句』
「近くにいる人」で皆さんが思いつく人は誰でしょうか。多くの方が家族の中のどなたかを思いつかれるでしょうし、その中でもお子さんが浮かぶ方も少なくないでしょう。
子どもたちはいつでも誰かが近くにいてくれることを求めています。子どもたちが近くにいて欲しい人は自分の事を大好きな人でしょう。あるいは自分の事を大好きになって欲しい人に近くにいて欲しいのです。
大好きな人が近くにいてくれることがどんなに力になるかを子どもたちはよく知っています。皆さんが園にお迎えに行かれた時に子どもたちの嬉しい顔を思い浮かべて下さったらよいと思います。
 私たちにとっては毎日のように顔を合わせる人はたくさんの人がいます。そのうち一人でも二人でも力をもらえる関わりがあると私たちの毎日は幸せなものとなります。その中の一人のイエス・キリストがおられます。

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2020年7月3日
2020年『7月の聖句』
私はこども園・保育園に出向く時、可能な限り歩いてゆきます。歩くこと自体が好きだということもあるのですが、歩きでいくと当たり前の事ですが園へ段々と近づきます。近づくにつれてわずかに聞こえて来る子どもたちの声が段々と大きくなってきます。その声は大抵活気に満ちた声です。楽し気な声です。そうした声を聞いているだけでもこちらも楽しくなります。子どもの声って不思議です。
 子どもの声が活気に満ちているのは何故だろうと考えてみました。そして思い当たったのは喜んでいるから、楽しんでいるからではないでしょうか。決していいことづくめの毎日ではありません。集団生活の中では様々なことが起こります。でもそうした様々なことが子どもを通して活気と喜びとになっていきます。大人の目から見たら平凡なことであっても、その中に子どもたちが喜びや楽しみを見つけることが出来る、そんな力が子どもたちにはあるような気がします。子どもの側にいる大人が出来ることはそんな子どもたちの姿を喜ぶことではないかと思います。
中遠教会 牧師 兵藤辰也

2020年6月12日
2020年『6月の聖句』
人や物ごとについてどのような物差しを持っているか、「価値観」と言われるものがあります。私たちはそれぞれに何かしら自分なりの物差し、基準となるものを持っています。皆さんがご自分のお子さんを見る時にもそうした物差しが働きます。
 聖書にも人に対する物差しがあります。それが今月の聖句となっている言葉で表されています。「人にはそれぞれに賜物が与えられている」賜物というのは生まれつきその人に与えられている性格・資質・才能といったものです。簡単に言ってしまえば「人間必ず1つはいい所がある」です。悪いところだらけの人間はいないのです。その人だけに与えられているものがあるわけです。
 保護者の皆さんにとって子どもたちが「賜物」であるわけですが、その子どもたちにはそれぞれにその子しか持っていないものがある、その意味で1人1人が特別な存在なのです。私自身の反省も含めてですが子育て真っ最中の時にはつい「足らないところ」に目が行きやすく、「足りているところ」は当たり前のこととして見過ごしてしまうことがあります。「足りているところ」を見て、褒めて下さることが子育ての秘訣のような気がします。

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2020年5月11日
2020年『5月の聖句』
今月の聖句には「あなたの名前」が出てきます。皆さんそれぞれご自分の名前をお持ちです。それは誰
かが付けてくれたものでしょう。また、皆さんはご自分のお子さんに名前をつけられたでしょう。どんな
なことを願ったり、考えたりしてお子さんの名前をつけたでしょうか。そのことを考えて下さったらよい
のです。名前は大切なものです。「名は体を表す」と言われるとおり、名前はその人そのものなのです。
ということは、人の名前を大切にするということはその人を大切にすることになるわけです。
ところで神様が私たちの名前を呼んでくださると聖書は告げています。それは、神様がこの世の中に何
十億といる人の中から私の名前だけを読んで下さることを現わしています。
私たちは自分の名前、子どもやその他の家族の名前をどんな思いで呼んでいるでしょうか。
コロナウィルス流行の中、窮屈な思いをしていますが、そんな中で一人一人の名前の大切さを覚えなが
ら呼び合えるとよいなと思うのです。     

中遠教会 牧師 兵藤辰也

2020年4月20日
2020年『4月の聖句』
新年度を迎えて色々なことが新しくなったり、切り替わったりするこの時期はこれから先のことへの期待を持たせてくれる雰囲気があります。もっとも、今年は新型コロナウイルスの流行があり、普段とは様子が違う新年度を迎えています。保護者の皆さんにとっても生活面や仕事の面でなにかしらの心配や不安を感じないで毎日を過ごすことは難しいかもしれませんね。
教会の暦では今、イエス様の御生涯がどのようなものであったか、特にその後半では苦しみや悩み、悲しみが積み重なった事を心に刻んでいます。どうしてイエス様がそのような目に遭われたのか、実は私たちの人としての苦しみや悲しみ、悩みなどをイエス様ご自身が引き受けるためにそうなってくださったのです。他人の苦しみや悲しみ、悩みが分かる事は愛していることの印です。自分の苦しみや悩みを分かってくれる人がいることに気付かされると、私たちは自分の大切さにも気づかされます。こうして自分の大切さに気付いた人は、他の人のことの大切さにも思いが開かれてゆくでしょう。
苦しみや悲しみ、悩みを通してでも私たちを愛して下さるイエス様の愛にこの一年も皆さんが守られ、導かれますように。
中遠教会 牧師 兵藤辰也