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写真で見る芙蓉協会の歴史

すべては焼け野原より始まった

昭和16年日本は、アメリカ合衆国に宣戦布告し、太平洋戦争が勃発した。

昭和20年7月未明、マリアナ基地を飛び立ったB29、130機は、沼津市を襲い9077発1039トンに及ぶ焼夷弾を投下し、須田病院(当院の前身)も焼失した。
須田寛作医師(初代院長)の愛娘、親族、職員も戦火で亡くなってしまった。


慰霊碑には、ヨハネ伝12章24節が刻まれている。
「Unless a grain of wheat falls into the earth and dies, it remains alone, but if it dies it bears much buit 」
「1粒の麦が地に落ちて死ななければそれはただの1粒のままである。しかし、もし死んだならば豊かに実を結ぶようになる。」
高き理想を掲げ、貢献する思いを残して先人達は亡くなられた。思いは、伝えられ、理想の実現に向けて実を結ぶ。



須田寛作医師(初代院長、元沼津市立病院院長)の長女で田子達彦夫人の政子さん(同志社女子専卒)は、W. H. ダンフォース氏(米国ラルストンピュリナ創業者・ダンフォース財団会長)の奨学金を得て戦前、米国留学していた。
空襲にて焼け野原となった地にテントを張り、雨の日も風の日もひたすら訪れる患者様の診察を続ける父:寛作医師の姿を、何とかならぬかとの思いで政子は眺め続ける。
米国との通信が可能になると留学時代の友人達に現状を訴えるべくせっせと手紙を出した。これがダンフォース氏に伝わり、「病院再興の資金1万ドルを贈る」と夢のような知らせが舞い込んだ。総司令部の援助もあり、1万ドルは直接建築資金となった。

病院再興が始まった。


芙蓉病院 建築中の様子


建築中の芙蓉病院 昭和24年(1949年頃)

建築中の芙蓉病院 昭和24年(1949年頃)


芙蓉病院 上棟の様子 昭和24年(1949年)

故 須田寛作 初代院長




芙蓉病院 完成


当時の新聞掲載記事



芙蓉病院
昭和24年(1949)3月財団法人芙蓉協会設立登記
昭和25年(1950)7月沼津市下一丁田898-1に本館及び別館新築、芙蓉病院として発足
許可病床25床
故高松宮殿下同妃殿下御来駕
昭和27年(1952)4月許可病床47床
昭和29年(1954)8月許可病床64床

故高松宮殿下・同妃殿下ご臨席の開会式
昭和25年(1950年7月4日)

故高松宮殿下・同妃殿下ご臨席の開会式
昭和25年(1950年7月4日)


昭和25年7月4日は、晴天に恵まれた。三井物産の渡部直氏のご配慮により、当時日本社会福祉事業協会名誉総裁であられた故高松宮殿下・同妃殿下のご臨席を仰ぎ、開院式は、晴れやかに開催された。
許可病床25床、内科・産婦人科を主とする診察室、レントゲン、手術室、病室を備えた病院。施設は、現在の第二駐車場の場所に建てられた。



芙蓉の名の由来

芙蓉の名は、病院再興の資金寄附をして頂いたW. H. ダンフォース氏の思いが込められています。
「ダンフォース氏は、『富士山の如き高き理想に生きよ』と訓えた。高き理想と人類の幸福と社会福祉に積極的に貢献することを祈念し、天高く聳える芙蓉の峰の如く」と名付けた。
日米親善と平和の標とし、米国独立記念日の7月4日を新たな船出の日(創立の日)とした。


戦災によってできた広大な空き地の中に新たに建ったばかりの芙蓉病院。
木造2階建て300坪のクリーム色の建物。





当時の沼津日日新聞に掲載された記事『外科など新設』


当時の新聞掲載記事



故 田子 政子 第二代理事長
昭和28年(1953年)

芙蓉病院 昭和28年(1953年頃)


芙蓉病院 昭和28年(1953年頃)

芙蓉病院 昭和28年(1953年頃)


芙蓉病院 昭和28年(1953年頃)

芙蓉病院 昭和28年(1953年頃)


芙蓉病院 医師・役員 昭和30年(1955年頃)

芙蓉病院 業務の様子 昭和30年(1955年頃)


芙蓉病院 業務の様子 昭和30年(1955年頃)

慰霊碑を囲んで 昭和31年(1956年頃)


機関誌:芙蓉「50周年記念号」を基に編集しています。

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