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ホーム  > 園長コラム  > 「子どもと対等な関係って」

「子どもと対等な関係って」

「子どもをほめて育てる」ことは保育、子育てに関わっている者は常に言われています。確かに叱られるよりは、ほめられる方が子どもも嬉しいでしょう。
「褒める」ということは子どもと対等関係というより、上下関係の中で行われることのように思います。
例えば、病院で自分の診療中、子どもが静かに待っていたら「よく静かに待つことができたね」と褒めるでしょう。そこには子どもは静かに待てないで愚図ったりするのではないかという思いがあるかもしれません。しかし相手が配偶者であったり、友だちだったらどうでしょう「よく静かに待つことができたね」とは言わないで「待って頂いてありがとう」と言うのではないでしょうか。それは静かに待てないとは初めから思ってはいないからでしょう。
 子どもを育てるには、子どもを一つの人格として認めることは大切です。故に親や保育者は「子どもと対等な関係」であることを望みながら「褒める」という行為はどのように考えたらいいのでしょうか。
また子どもと対等な関係から思うのは“先生”という言葉です。
私たち保育士は、子どもたちをはじめ、保護者の皆さまから「○○先生」と呼ばれています。今年初めて保育現場に立った職員もです。
「先生(せんせい)とは、教育機関、あるいは塾において、教える者のこと。教員の呼び方である。また教師・医者など、学識のある、指導的立場にある人。また、そういう人、自分が師事する人に対する敬称。」とありました。
少なくとも保育士は「子どもを養護、教育する職業である」と私は考え「○○先生」と呼ばれることは、職業上自然に受け止めてきました。
 学校を卒業し、教育、保育現場に立てば誰もが“先生”と呼ばれるのです。大切なのは“先生”と呼ばれるからにはそれに値する人になるように常に努力することが求められるのではないでしょうか。“先生”と言えども労働者でもあるわけですが、生活が、公私がはっきり分けられてできる職業でもないと考えています。少なくとも職業上、子どもたちに関わる以上、その保育士の人間性や人生観が子どものその後の育ちに影響すると言われているのですから。
「子どもと対等な関係であることを望むばかりに、また子どもの主体性を大切にするあまりに、できるだけ保育士は子どもに影響を与えないよう関わらない」という考え方には“先生”は必要ないように思いますが、少なくとも保育教育施設であるならば、子どもと対等な関係の中にも“先生”としての役割も必要だと考えています。
そして、子どもと対等な関係を考えるなら、子どもに向かって自分のことを「先生はね・・・」と話している場面がありますが、子どもたちの前で話す時は「私はね・・・」「僕はね・・・」であり、そうした言葉の使い方から対等な関係が子どもたちに示されていくのではないかと思うのですがいかがでしょうか。