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「こどもから学ぶ」

毎週月曜日は、幼児クラスは3階ホールで礼拝を行っています。開園年の昨年は主に私や主任がお話をしていましたが、今年から、幼児クラス担当の職員も交えてお話しをするようになりました。
 先日S保育士が担当でのお話は、西日本豪雨で被害に遭った人たちが家を流され、あるいは土石流で壊され、避難生活している様子をTVや新聞等で子どもたちも見聞きしているだろうが、再度そうした方々の生活を具体的にイメージできるように、写真を見せたり今の自分たちの生活と比べてどうだろうと伝えながら、『そうした人たちに私たちは何ができるのか』と考えながら、義援募金につなげようとした内容でした。
 S保育士から相談を受けた時、私は、子どもたちはこの話を聞いても、「具体的に『何ができるか』はわからないだろう、しかし何もしないのではなく、子どもでもできること、それは他の人のために手伝いや、お菓子を我慢してもらったお金を募金することはできることを伝えてもよいのではないか」と話し合っての内容でした。
 当日私は礼拝には参加できませんでしたが、礼拝に参加した主任から『子どもから出た発言を受け止めないで、募金箱につなげてしまったのでちょっと残念でした』と話してくれました。
「子どもからの発言はどんなものだったの?」と聞くと、「そうした被害を受けて避難生活をしている人たちに私たちは何ができるか?」と問うと、3歳児のS君が「神さまにお祈りをする」と言ったそうです。私はそれを聞いて、愕然としました。『子どもだから何もできない』のではなくどんな時でも、何もできなくてもお祈りすることはできる。これこそキリス教保育の原点ではなかったのではないか。私には、それがなかったと気づかされたのです。
 「教える」「伝える」がまず優先され、義援募金につなげることに重点をおいて話したS保育士に、そこの発言はとても大切な発言であったことことに気づいていたかを聞いてみると残念ながら気づいてはいませんでした。
 キリスト教保育の子ども観では、“子どもから学ぶ”ことがあります。それは、イエス様は「子どもは小さくて何もわからないから、大人が教える」のではなく、私たちに「子どもの様になりなさい」と言われます。 “子どもから学ぶ”とはまさにこのようなことをいうのです。しかし、保育者や大人が気づかない限り子どもから学ぶことはできないのです。保育士の気づきがあって始めて“子どもから学ぶ”ことができるのです。子どもは直接、大人や保育者に教えることはしませんから当然といえば当然です。
 私たち大人や保育士は子どもと接する時、一般的には『子どもは何も知らないから保育士や親が、子どもを教え導くことは当然あり、当たり前だ』と思われていますが、そこにもう一つ“子どもから学ぶ”ことも常に忘れないで子どもに接して保育していくことがキリスト教保育なのです。
 そして開園して2年目で子どもたちは、礼拝や日ごろの生活を通して、素直に神さまの存在を信じているこの発言が、私たちが実践しているキリスト教保育を勇気づけ、常に子どものそばにいることの喜びを改めて感じたのです。