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聖隷三方原病院は、地域医療支援病院として、質の高い地域完結型医療を目指しています。
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「寄り添う」 遠州栄光教会牧師 森田恭一郎氏

「寄り添う」
        遠州栄光教会牧師 森田恭一郎
 
 聖書の言葉から
 「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(新約聖書 ヨハネによる福音書15章12-13節)。この聖書の言葉からまず、お祝いを申し上げたいと思います。
 この聖句は主イエス・キリストのお言葉で、聖隷福祉事業団の理念「キリスト教精神に基づく『隣人愛』」の典拠になる聖句の一つです。キリスト教精神に基づく隣人愛はまず、人間が人間のみの自力で愛する、私から隣人への営みというよりは、キリストが私を愛して下さったようにあなたをも愛して下さっているのですよ、とキリストの愛を分かち合う営みです。因みに、キリストに愛されているということがどのようにして分かるかと言えば、教会の礼拝で聖書の言葉を聴き入ることを通して身に染みてくることに依ります。
 さて、「これが私の掟」とあります。「掟」というと何か義務として守らなければならない規則のようなイメージを抱きますが、むしろキリストの私たちに対する信頼に満ちた確認の言葉です。「私があなた方を愛したのだから、あなた方も互いに愛し合うようになりますね」と。このようにキリスト教精神に基づく隣人愛は加えて、外側から課せられる義務ではなく、気付いてみたら内側から滲み出ていたような、しないではいられない喜びが形となったものであると理解すると良いでしょう。
 続いて愛の内容を「友のために自分の命を捨てること」と表現していますが、正直な所、自分の命を捨てることまでは出来ない、と誰だって思いますね。もっとも長谷川保氏は「キリストのために働き抜いて、キリストのために共に労し抜いて、最後、野垂れ死にすることをもって理想としよう」と言いましたから、「命を捨てる」のも文字通りに受けとめておられたのだと思います。この聖句そのものは、キリストが十字架にご自分の命を置いて、亡くなられた贖罪(しょくざい=人間の罪を代わりに負うこと)死を念頭に置いています。
 「捨てる」という言葉はもともと「置く」という言葉です。ゴミ箱に置くなら捨てるとも訳せるのかもしれませんが、命はゴミ箱になんか捨てません。もっと相応しい訳しようがあるはずです。友のためにということであれば、「献げる」ということなのでしょう。医学教育のための献体や臓器移植も献げる営みです。そして献げる営みは相手を生かします。ただ献体も臓器移植も通常の営みとしては考えられないことです。日々の営みとして、「寄り添う」と訳してみてはどうでしょう。「友のために自分の命を寄り添わせる」わけです。

  聖隷の利用者と職員の皆さんの言葉から
 「寄り添う」と表現しますと、医療、看護、介護の営み、病院の全ての業務はその行為をもって直接間接に患者に寄り添う営みであり、実際、職員の皆さんが、寄り添うことに心に留めながら日々の業務に携わっておられることに気付きます。私はそのような皆さんのお姿の一端に触れますとき、心ひそかに敬服する思いで一杯です。
 その上で、一緒に考えてみたいことがあります。利用者の方からこういう言葉を聞いたことがあります。「用がなくても来て欲しい」。こう言葉に出さなくても患者さんのこの要望、ニーズが大きいのは皆さん既にご存知の通りです。これをどう受け止めていくか、実に有意義な課題ではありませんか。「用が無いままに寄り添う」ことに真正面から取り組むとしたらどんなあり方があるでしょうか。その点で、この度、聖隷三方原病院が専任のチャプレンを招聘(しょうへい)されたのは意義深いことです。今後この営みがチーム医療の連携の中で尊重され、質量共に充実展開していくことを期待しています。
 80年の営みを(先輩の話をお聞きして)振り返る時、幾つもの言葉が印象に残ります。先程の「野垂れ死にをもって理想としよう」もその一つですが、「結核を治すことよりも結核に打ち負かされない人間を創る」も忘れられません。本来人間創りは患者さん自身の課題ですが、職員は当初から、自分の携わる職種が医療、看護、介護のどれであれその行為をもって、また行為としては用がなくても患者さんとその人生に寄り添い、その人間創りに関わっておられますね。患者さんに寄り添って応援したわけです。「人を包む」とも言われてきました。職員の包み寄り添う営みが患者さんに必要でした。礼拝での聖書の言葉も不可欠でした。患者さんは午前中の礼拝や信仰の学びによって罪の赦しや救いを確信し、状況を冷静に受けとめる心構えを培い、午後には病理の学びをし「冷たいほど科学的に」自分の病状の説明を聴き、患者として生活を整えていく姿勢を確認したそうです。日々のこの療養生活の積み重ねの中で、患者としての自覚を持ち冷静に「真剣に病む」ことを求められ、生きるにしても召されるにしても「天に希望を繋ぎ」ながら、明るく笑顔の中に「健康に病む」ようにと導かれていきました。
 聖隷に言い伝えられてきた言葉を一部ながらも味わいつつ、改めて考えてみますと「寄り添う」ことは昔の話ではなく、むしろ、これからの社会で最も必要とされる「人間創り」であると気付かされます。これは、今日のカウンセリングやインフォームドコンセントやDNRに勝るとも劣らない、患者の納得した療養生活、人間を創る営みが聖隷の療養であるのではないでしょうか。そしてキリストの執り成しの下にある真実な寄り添いの中では、立場としては患者や職員の区別はあっても、人間としては区別なく患者も職員も双方が自分とお互いの人間創りに仕える事が出来るのであり、愛と祝福の内にある人間の姿を見出していくことが出来るのだと思います。これからの聖隷に一層期待されていることです。そのために今後一層、教会もお役に立ちたいと願っていますので、皆さん、声をおかけ下さい。
 皆様の上にキリストの祝福を祈りつつ、将来に臨んで望みを胸に、聖隷創立80周年、おめでとうございます。


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