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聖隷三方原病院は、地域医療支援病院として、質の高い地域完結型医療を目指しています。
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「聖隷福祉事業団80年にあたって」 十字の園診療所 医師 後藤幸一氏

「聖隷福祉事業団80年にあたって」  十字の園診療所 医師 後藤幸一 2010年8月8日(日)

聖隷福祉事業団、80年を迎えるにあたって心よりお祝いを致したいと存じます。

私が、外科医として三方原に就職をしたのは、昭和51年(1976年)です。新米の身でありながら、その頃は病院前の職員宿舎(現在の第2駐車場の位置になります)、それを改装して住ませてもらいました。その時、事務長さんは、後の事業団の役員になられた鈴木捷二さんでした。今でも本当にありがたく思う次第です。しかし、しばしば夜に手術などで呼び出しをうけることになりました。

歩いて出かけると、厚生会館の玄関のところ(現在の医事課、2番窓口のところ付近にあたるでしょうか)、大きな一枚板の衝立(ついたて)があって、クリスチャン賀川豊彦(1888~1960)の直筆が書かれてありました。きれいなつづけ字で「大自然に抱かれて、神の愛を呼吸する。如何に嬉しいことであろう」とあり―そのころは、右も左も、むろん聖隷の歴史も知りませんでしたが、これから病棟に向かうにあたってさわやかな、力が湧いてくるような気がしたものでした。

“さあ、これからやるぞ”というような気合がはいって、そして帰るときにはうまく行かなくてがっかりとしたことがあったにせよ“ああなんだか励ましてくれるような充実をさせてくれるようだ。”と思いつつ読んだものです。結局、その頃から34年が経っていますが。

夜は、漆黒に静まりかえって、厳粛で、敷地全体が“大自然に抱かれて”・・まさにそのとおりのものでした。


・・あの立ててあった一枚板、うる覚えだが、たしか聖隷の資料館にあったはずだが。と想い出し、先日、外来診察の途中(すこし抜け出し)聖隷クリストファー大学内の資料館に入ってみました。しかし、その書には(ここにメモをして帰ってきたのですが)、違った文面となって、「神の摂理を発見すれば、神の神秘が我等に迫る」と、こうなっていました。

結局、夜中にうろうろとしたから、暗い中で見まちがえたのか、それとも自分の記憶力のなさなのか、と少々がっかりとしたものでしたが、よく見ると、板には裏とおもてに両面に書かれてあったのですね。(一方の側は最初に書いたとおりのものでした。)

まさに“神の神秘が我等に迫る”というもので、34年の記憶とはそういうことを表しているということなのでしょうか。


創設者、長谷川保の『夜もひるのように輝く』の中では、聖隷社創業は、“1926年復活節 神のものは神にかえせ 聖隷社”とあります。これは大正15年にあたります。

その後、昭和3年3月になって消費組合浜松同胞社が創設されていますが、これは生活協同組合の先駆者、賀川豊彦が唱えた英国ロッチデール開拓者協同組合から学んで出来たものであることがわかります。

肺結核で、「この子の五尺のからだを天地の間に入れてやる所がないのですわ・・・」とその父に言われて、この消費組合で桑原青年をあずかったのが、昭和5年であり、この年が福祉事業団の始まりとされています。この年が1930年ですから結局、本年で創立80年ですね。

たしか昭和63年頃と思いますが、長谷川保氏と八重子夫人に誘われて、“賀川豊彦の映画がありますから一緒に見に行きませんか”と、板屋町のちいさな映画館に行ったことがありました。題名は「死線をこえて」で、主役に国広富之(賀川豊彦役)、妻役は、若かりし黒木瞳で、とても均整のとれたいかにも貧困者のために一生を捧げ尽くし、またその手助けをした伴侶としての妻の姿が忠実に描かれたものでした。おそらく私が、聖書講義に出席をしていたから、誘ってくださったのだと思われますが、よく考えると、聖隷の歴史の端々(はしばし)に、キリスト教社会運動家、賀川豊彦の存在があったのだなあと改めて感じさせられる次第です。


私が就職して、4~5年のころ、聖隷の50周年の記念行事式典があって―聖隷高校の旧体育館、マザー・テレサが来日し、講演会をしたところで、―おそらく聖隷の機関誌には初代の先駆者たちが勢ぞろいした記念写真が写っていると思います。

じつはまだ健在の人たちもいるのです。(この80周年を迎えた今でも)。それは聖隷の敷地内、ケアハウスであったり、十字の園(特別養護老人ホーム)であったりで、その後姿を拝する(時には診察もする)仕事にも恥ずかしながら、担っているわけでもあります。

多分、今のB病棟の地下にオペ室がうつったころだから、昭和61年頃ではないかと思います。麻酔科の高田知季先生から、「これ引っ越しで、捨てる予定ですが先生があずかってもらえませんか。」と言われ、数冊の古い大学ノートを渡されました。

おそらく今はだれも聖隷で最初に手術があったのか、知られてはいないと思いますが、記録では昭和24年8月。元東京帝国大学、外科教授、都築正男医師が、三方原に来られて胸部の手術を施行されたこと、それらのノートは忠実に80年の歴史のなかで語っていることをここに記しておきたいと思います。

今後、歴史はいかなる形であれ、これは継続の流れをとるものであります。その一端をも担いつつ、微力ながらでも役に立つことができればと思っている次第でもあるわけです。


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